外マドレーヌ─哉村哉子いろいろ置き場

架空の鹿の死(2)

この物語はフィクションです。

午前八時に起きた。わたしは自分が泣いているのを確認した。オーケー、涙はここにある。それはよいことだった。少なくともそれは間違っていなかったし誰を傷つけることもなかった。わたしはわたしの鹿を殺したことを悼んでいる。オーケー、それでいい。わたしは起き上がった。ロフトベッドを降りた。ウォーターピッチャーに半分のポカリスウェットと、ウォーターピッチャーいっぱいのハーブティーが、机の上に用意されていた。わたしは昨日のわたしに感謝をした。コンピューターを起動した。いまこれを書いている。

目を覚ます。あらゆる感覚がなにひとつ残されていないことをわたしは確認する。わたしはわたしの鹿を殺すときたしかに意図していた。わたしは傷ついていたわけではなかった。わたしは心底腹を立てていた。そしてこれまで心底腹を立てたあらゆるときと同じようにわたしの憤りは自殺へと向かった。これまでにいったい何を殺した、と、わたしはわたしの無感覚に問いかける。わたしが女神と呼んでいるあの女を愛していた自分、それからいくつかの恋と憎悪の区別がつかない感情を抱いていたままなにひとつ伝えずにただ微笑んでいた自分、あんなにやさしくしてくれたあの子に深夜三時に電話をかけることをどうしても我慢できなかったあのときもひとり死んだ。

「おまえが殺したんだ」

オーケー、確認しよう。わたしが泣いているのは何のためだ。友情を裏切ったから。残念ながら違う。守ると決めた人を守らなかったから。残念ながら違う。傷つけられそして敗北したから。違う。わたしが架空の鹿を殺したからだ。そしてこれは繰り返されたことだからだ。沸騰する感情。「そう、それならもういいよ、全部チャラだ。俺が死ねばいいんだろ?」なにひとつ迷いはなかった。それで誰が傷つくか何が起こるかどんな混乱を招くかそして友人たちが悲しむこともそしてわたしの手元に残るのはただ単に架空の鹿を殺したという単純な事実だけだということも全部理解していた。繰り返されたことだからだ。全部わかっていた。わかっていてやった。「もういいよ全部チャラだ、――――――」

かつてわたしが大嫌いだった学友が、わたしに向かって笑って言った。「蠍座の人間は捨てることが大好きなんだよ、ほっとするんでしょ?」

残ってゆくのはいつも批判の言葉だ。

女神はわたしを最後に嘘つきと呼んだ。そのことをわたしは生涯忘れない。おまえは神であるとき以外すべて、露悪的で無価値な言辞を振り回して徒に人を傷つけていると言われた言葉も忘れない。洗脳をして何をする気だと言われたことも忘れない。おまえのアジテートが戦争を生んだと言われたことも忘れない。彼らは全て正しいことを言っている。わたしにあらゆる愛の言葉がささやかれたとしても、それは事実だ、わたしはわたしを神ではない名で呼んだわたしの友人を愛していた、愛していたはずだった、でもいまわたしはそれが「わからない」

中学生のわたしがふとそこに現れる。おさげ髪をしている(わたしはあなたではないということを確認するために、わざと古臭いおさげ髪に結って、わざと短くしないスカートを履いて、あらゆる人間に敬語を使い、頭の中で一度整理した、台本通りの言葉を言っていて、クラスメイトにひどくいじめられている)。中学生のわたしは言う。

「わたしは今日自殺について考えました。わたしはもう今すぐ死にたいです。いいことなんてなにもないのは知っています。わたしに価値がないことも、わたしに価値があると誰も言ってくれないことも、空が落ちてくる日は来ないと、誰も約束してくれないことも、約束してくれたとしてもわたしはどうせ、誰も信じられないことも。けれどわたしが死ぬとまずお母さんがつらいということはわかっています。お母さんはまだお父さんが死んだことを悲しんでいて、それがあと何年続くのか、誰にもわかりません。お姉ちゃんはお父さんが大好きで、そして、たぶん、一生お父さん以上に誰かを愛することはない人だと思います。お兄ちゃんは呪われました。お兄ちゃんはたぶんこれから一生、お父さんのあとを追いかけることしかできないんじゃないかと思う。わたしはここで死ぬわけにいかないことはわかっています。そうしたら次はお母さんの番かもしれないからです。わたしは自殺することが許されないということがわかりました。わかってよかったと思います。わからないよりよかったと思います。わたしは十三歳で、小説を書くのが好きです。わたしの小説に価値があるとは思いませんし、誰に読ませることもできません、そもそも書きあがらないからです。わたしは十三歳で、授業中は眠っています。それ以外の方法がわからないからです。先生は給食にチョークを入れられてから学校に来ていません。かわいそう。わたしはそれを止めませんでした。だからたぶんわたしも加害者なのでしょう」

台本通りだ、かなちゃん。完璧だね。そして君の台本はとても正しい。自殺の意味をわたしはあの日定義した。だからわたしは君の言葉の全てをこう言い換えることができる。「もういい。みんな死ね」

十三歳のわたしは自殺をすれば後追い自殺が出るような不安定な環境を捨てられないということを知っていた。三十一歳のわたしは自殺はとてもインスタントだということを知っている。なぜならもう台本を作り慣れてしまったからだ。わたしはいまでも(あらゆる全てではないにしろ)コントロールされたテクニカルな言辞によって、「洗脳」している。わたしは台本を作り続けることによってしか生きるすべと語るすべを持たなかった。今でも持たない。三十一歳のわたしは自殺はとてもインスタントだと知っている、それはデータのデリートというかたちで行われる。わたしがカテゴライズしたわたしの台本を、わたしは燃やす必要すらない、ごみはなにひとつ出ない、とても衛生的だ、ただ消すだけ。ぽん。おしまい。

ねえかなちゃん、そしてあの日、自殺するタイミングを決めたよね。

「そんなわけで、わたしが死ぬことで生まれるあらゆる不利益の全てがどうでもよくなったときはわたしは死のうと思います」

ねえかなちゃん、きみはたぶんあのときはじめて、自分が振るうことのできる暴力の種類に気づいたんだと思うよ。トーマの心臓みたいにさ。トーマの心臓を十三歳のかなちゃんはまだ読んだことがない。早く読めばいいのにね。これがぼくの愛。

午前九時だ。わたしはようやくポカリスウェットを口にすることができる。その液体には言霊がついている。「水は飲んだのか」わたしの友人が尋ねる。「塩分と水だ」わたしの友人が言う。わたしは友人に感謝をする。かなちゃんに感謝をする。わたしが殺したあらゆるわたしに感謝をする。代わりに死んでくれてありがとう。わたしはわたしの鹿に感謝をする。

おまえのお葬式にはたくさんの人が来てくれたんだよ。

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