外マドレーヌ─哉村哉子いろいろ置き場

架空の鹿の死(3/そしてこれでおわり)

この物語はフィクションです。

話し合おう、と声が聞こえる。そうだね、とわたしは答える。

わたしの部屋がここにある。わたしの部屋、わたしの頭痛、わたしのロキソニン。ロキソニンは「いざというときのために」友人がくれた。わたしは友人に感謝しながらそれを口にする。わたしはこの顛末で頭痛という新しい友人を得た。彼女はわたしの頭を殴りながらこう囁く。「このままだとおまえは三十日後の蘇生を待たずして死ぬ」わたしは彼女に屈服し、ロキソニンを、あるいはソラナックスという名前のわたしの無根拠な恐怖を遠ざけるための頓服を口にする。Twitterアカウントは三十日以内に蘇れば死をチャラにできる。頭痛が口にする三十日後の蘇生というのはそれを踏まえた比喩だ。三十日以内なら蘇生ができるインスタントな死だけを続けろ。そして蘇生するタイムリミットを決して忘れるな。それが生きるということだ。

確認しよう、と頭痛が言う。三十日以内に蘇生することを繰り返す。うっかり忘れる瞬間まで、うっかり忘れないことを繰り返す。

オーケー。

わたしと頭痛は部屋を出る。わたしはずいぶん久しぶりにわたしの街を歩いている。わたしの街。わたしが選んだ街。わたしは神社を抜ける(全てが始まる前カラーセラピストに緑を身近に置くようにと言われた)。わたしは八百屋の前を通り過ぎる(社長と呼ばれる店主がチェーン展開している店の余剰品を適当に投げ売りしていると推測される驚異的な価格破壊を行う八百屋)。わたしは夜の街を歩いている。霧雨が降っている。夜の街はとてもきれいだ。わたしは雨が降っている夜の街がとても好きだ。そこではあらゆるものが過剰に輝く。

そしてわたしは海に行き着く。海はとても暗くくろぐろとわたしの目の前に広がっている。なにかのメタファのように。わたしと頭痛はそれを見つめている。

「確認しよう。何が目的だった? そしてそれはどこから始まった?」

「スタート地点を設定するのは難しい。おそらくは架空の鹿が生まれた時から。架空の鹿がそこに存在すると決めた時から。架空の鹿をコンテンツとしてまなざしている人々を確認し始めた時から。わたしの文章が商品になると自覚した時から。言葉に責任を持つことと向き合った時から。――わたしは架空の鹿を殺すタイミングをずっと探していた。あれに乗せられる期待はわたしの手に余った。こんなことになるずっと前からだ」

「一度殺した」

「そう、一度殺した。でも戻った。どうして戻ったんだろうね? 聡明なるトーべ・ヤンソンが書いていたはずだ、人は落ち込んだり苦しんだりするときに裏庭に行って自分の苦しみと向き合うと。可愛いエミリーもいつだって庭に駆け込んでいた。それから梨木香歩はもっと突っ込んで裏庭の話をしている、そこにはどろどろとした沼と死体を含めたすべてがあってそこにわたしたちは逃げ込むことを許されている。あるいはそこでだけは本当のことと美しいことと生きることは両立すると信じることができる。架空の鹿が住む裏庭をわたしは切り捨てることができなかった。一回殺した。戻ってきた。そうして今度は――殺したと言ってきたけどたぶん違うね」

「そう」

「たぶん違う。わたしはあいつを聖別した」

「そう」

「わたしはわたしの架空の鹿を天上へと召し上げた。わたしは裏庭をこの中つ国から高天原へと押し上げた。高天原の連中は意外とフランクだったよ。鹿という名前の星座を作ってくれた。星座というのは全て架空だからあるべき場所に至ったということになる。いろいろ混ざってるがまあそんなところだ。わたしはあいつを殺したんじゃない、神としての職務を全うするとはどういうことかプレゼンした結果面接して内定を頂いたので、高天原でのお仕事を頂いたんだ。だから架空の鹿はもう中つ国にはいない」

「就職おめでとう」

「ありがとう」

「でもきっかけがあったはずだ。そうだろ」

「そうだね、――昔々あるところに、とても悲しいできごとがありました。その悲しいできごとに錯乱したひとりの女の子が(女の子であるという確証はべつにないけどわたしは女の子が好きだからそういうことにしておくよ)善悪二元論に分類すれば間違ったことを行った、それは無理もない叫びだったけどあくまでも善悪二元論に落とし込むなら間違ったことだった。そしてそれを指さしてあらゆる悪意が笑い立てた。あれがトリガーだ。わたしは本当に笑うべき存在を設定してきちんと踊ることにした。それからあの子がどうしているかは知らない。でも誰かが誰かを指さして笑っているという話は聞かない。少なくともあのサイズの話は聞かない。わたしは成功した。わたしを指さして笑わせることにわたしは成功した」

「君はとてもうまくやった」

「笑われるのは辛かったよ。怒られるのも辛かった。嫌われたくて嫌われたかったわけでもない。でもわたしは勝利した。それまでの全てに、わたしの人生にかけられた呪いに、勝利した。わたしはわたしを嘘つきと呼んだ女神に勝った、わたしは嘘つきを継続してわたし自身が神になった。わたしはわたしに神になるしかないという呪いをかけたあの人に勝った、わたしは本当に神になった。わたしはわたしを醜い扇動者と呼び間違った教育を施す悪魔と呼んだあいつら全員に勝った。少なくともわたしはあの子があれ以上燃やされることを阻止した。あとは全部既定路線。高天原に就職するために与えられた研修プログラムだ。あの子が今少しでも幸福であることを祈る。ありがとう。全部君のおかげだ」

頭痛はわたしの傍らから消えている。

わたしは夜の街にいる。この世のものとは思えないほどにきれいだ。だからたぶんもうここはそこではないのだろう。わたしは笑っている。わたしは声を立てて笑っている。わたしは恋をした青年のように道端で笑っている。ねえ最高だったでしょう? 完璧な仕事をした。わたしはここにいる。

わたしは星座になったんだ。

わたしは家に帰る。わたしの街、神社と八百屋、わたしの部屋。そうしてわたしは扉を開ける。キッチンに蹲ったわたしの同居人が目を上げて言う。

「おかえり、鹿さん」

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