外マドレーヌ─哉村哉子いろいろ置き場

架空の鹿の死

この物語はフィクションです。

唐突に泣き始めたのが午後四時だった。どうしてだかわからないけれどわたしは午後四時という時刻が嫌いではやく五時にならないだろうかと思う。五時になったら夜だから眠ってもいいというルールをいつ決めたのかわからないけれどそういうことになっている。五時になったら寝てもいい。四時は寝てはだめだ。絶対に。三時も寝てもいい。でも四時はだめだ。絶対に。

そしてわたしは眠ることができなかった。別に今日は四時であろうと寝ていいはずだった。わたしはろくに眠らないまま夜を過ごして朝になって架空の鹿を殺したあとだった。

わたしはかつてあらゆることが絶望であったとき、架空の神をつくりあげた。彼女はかつて、愚痴も言えば罵倒もするただの人間だった。わたしは彼女を呼び出し、わたしの神になるように言った。彼女は架空なので従順にそれを承諾した。彼女の最も重要な機能は、わたしに微笑みかけて、「早く死ねるといいですね」と言うことだった。それは事実だった。

そうしてわたしはあらゆる絶望の果てに「五年後神様になれなかったら死ぬ」という誓いを立てた。それは架空の神をわたし自身の名にすることだった。とある人がそのような呪いをかけた。「あなたは神になる以外の全ての価値がない」という呪いを。

そうしてわたしは神になった。五年を待たず。たった二年で。

そしてどうなったか?

あらゆる供物がわたしのまえに用意された。それをわたしはあるいは口にしたがそのほとんどは食べられなかった。わたしはそれらが目の前に積まれていくのをずっと見ていた。そうしてわたしは積まれた以上全てを口にするべきではないかと考えてそれを口にした。

わたしの鹿が死んだ。わたしのあらゆる友人が、わたしを死においやった人々に怒りを漏らしている。わたしはそれをみつめているけれど、けれどよくわからない。なぜならわたしの鹿を殺したのはまぎれもなくわたし自身だったからだ。わたしはわたしの鹿が愛されていたことを確認している。わたしの友人たちがわたしが鹿を殺さなくてはならなかったことに憤っている。まちがった供物に憤っている。わたしはそこで与えられる愛について語る言葉を持たない。わたしはわたしが殺した鹿を見ている。わたしは神にならなくてはならなかったのではなかったか。そうする以外なんの価値もなかったのではなかったか。わたしを鹿と呼んだわたしの友人、わたしを鹿と呼び続けたわたしの友人たち、わたしの気を引き立ててありきたりな友情を与えわたしを朗らかな鹿として育てた友人たち、わたしをたいした鹿だと呼んでくれた友人たち、みんながわたしの鹿の死を悼んでいる。

わたしが殺した。

そうしてわたしはつぶやいている。「早く死ねてよかったですね」。

それだけが神に許された言葉だ。

夜十時、わたしはコンビニエンスストアの弁当の棚の前に立っている。どうしてだかわからないけれど弁当を四つ買う。全部食べることはもちろん不可能だ。だからこれは誰かのためのものなのだろう。わたしはひとつをわたしの死んだ鹿に、ひとつをわたしに神の訓練をさせた架空の神に、そしてひとつを同居人という名で呼ばれるわたしの友人全てのメタファに差し出す。お葬式をしよう。死は救いで祝祭なんだよ。お祝いをしよう。おめでとう。

新しい記事
古い記事

return to page top