外マドレーヌ─哉村哉子いろいろ置き場

はじめまして

彼は煙草を吸うことができない、ただふかすだけだ。彼は酒が飲めないし、ブラックコーヒーを飲むこともできない。彼は自分が「子供だ」と思う。彼は自分がそうであることを恥じていて、だから全部「できるふり」をする。

彼はトレンチコートを着て冬風に吹かれて歩いていて唐突に、この世界は死後の世界だと気づく。あらゆるものが死人なのだ。彼は唐突に死者の世界にまぎれこんでしまったにすぎない。たしか、と連想ゲームのように彼は考えている。彼が中学生だったころ、部活動の先輩が貸してくれた小説に、そういうのがあった。異世界に紛れ込む。全部がどろどろしていて気持ちの悪い世界。そういう場所だということに、どうしてこれまで気づかなかったのだろう。

けれどそうして彼は世界を見やり、あきらめと慈悲のこもったまなざしで、あらゆる全てが美しいと思った。世界の全ては存在しているだけで美しく、そこにいるのが陳腐なゾンビに過ぎなくても、彼らが彼を食い殺すことしか願っていなくても、もう世界の全ては美しいのだから、それで十分だった。

逆に、と彼は思う。逆にこれは全部むこうが正しくて俺が間違っているのかもしれないなと思う。大衆が正しくて個人が間違っているなんて、よくあることじゃないか。つまり向こうがきれいで醜いのは俺なのだろう。でもそんなことを認めたくないなと彼は思った。煙草を吸えないことを認めたくないように、そんなことを認めたくないなと思った。自分が本当は死んでいるのだと、認めたくないなと思った。

中学生のころ先輩に借りて読んだ小説では、異界は密接に水に結びついていて、醜いものはみなそちらから来る。けれどそれはわれわれにとって醜いのであって彼らにとっては美しいのではないか。その世界こそが美しいのではないか。そこでなら彼は美しいのではないか。この世界において彼の目に映るものがどれほど醜いとしても反証として彼が醜いとしても、水の中でなら――

鏡のように湖水が彼を見つめている。

彼はもう帰る家を持たない。

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