外マドレーヌ─哉村哉子いろいろ置き場

コードゴースト① レコード(R-18/!注意:強姦)

建物自体も庭も、やたらに広い家だった。
21歳、花冷えの頃だった。湖の傍にあるその家で、伸行(のぶゆき)は長い間、祖母と二人で暮らしていた。
両親が死んだのは5歳の時、祖父が死んだのは12歳の時だった。一緒に遺された姉とは、それほど仲が良かったわけではなかった。だから寂しいときには、当時一緒に住んでいた従兄弟とばかり過ごしていた。従兄弟は7歳年上の兄と、伸行と同い年の弟がいて、仲が良かったのは弟のほうだった。
従兄弟の一家は、伸行が13歳のときに、庭にもう一軒家を建てた。だから夜は行き来がなくなった。それまで同い年の従兄弟といつも一緒に過ごしていたから、あとから思い返すと奇妙に思えるほどに怖かったのを覚えている。
どうしてわざわざ家を建てたのだろう。二世帯が満足に暮らせるだけの広い家だったのに。
祖母とふたりきりになって、住んでいる部屋以外はもうほとんど触らなくなり、管理の行き届かない家だったので、その日も、あらゆる部屋を皆が使ったわけではなかった。だから人が行きすぎることもない奥の奥にある物置まで、誰かが来ることはなかった。多少の声も、聞こえなかっただろう。
にもかかわらず、口の中を噛んで息を殺していた。
気づかれたくなかった。助けてほしいにも関わらず、助からないと思っていた。助けを求めることはできないと思った。
だって今日はばあちゃんが死んだ日だし。
通夜の喧噪が遠く聞こえる。故人の思い出を語っている親族から遠く離れて、伸行はいま、必死で声を殺し、揺さぶられている。

紫蘭(しらん)は同い年の従兄弟で、兄弟同然に育った。あるいは兄弟以上に親しく育った。
いま紫蘭は伸行の体を押さえ込み、肛門に男性器を押し込んでいる。
強姦、という言葉は伸行の認識の埒外だった。ケツにチンコが入っているので痛い。痛いのでこれは暴力だと思う。そう思うまでが精一杯だった。もっと頭の良い人だったら今起こっているのがなんなのか、どうしたらいいのか、わかっただろうか。
通夜の席で、大丈夫か、と言った紫蘭が渡してきたハンカチから、嗅ぎなれた匂いがした。
祖父の体からよく漂っていた匂いだった。祖父が経営していた、そして今は紫蘭の父が経営している工場でよく使う溶剤の匂い。濃い匂いを嗅ぐと意識が傾いた。紫蘭が伸行の体を支え、言った。
「のん――伸行、大丈夫か。こいつ、気分悪いみたいなんで、部屋に連れていきます」
その溶剤の匂いは通夜の席に現れた職員の数々からも漂っていた。だからおかしなことではなかった。だれにとっても。
頭がくらくらする。奇妙な高揚感が体を包んでいる。
横たえられた部屋はほこり臭かった。
おかしい、と思ったときには、遅かった。
起き上がれない。ぐらぐらと天井が揺れている。しーくん、と、呼び慣れた名前を呼ぼうとする舌が回らない。
物置にいる。いつだか祖母に言われて片付けたミシンが傍らにある。
喪服の下を脱がされる。どうしてだか勃起している。こんな日なのに。
紫蘭はカメラを持っている。三脚を立てて、それを固定している。
「のん」
性器を撫でられて体が跳ねた。背筋から首筋を伝ってびりびりと電流が流れて頭を支配した。
「志乃生(しのぶ)ちゃん、こんど、メジャーデビューだって」
姉の名前を唐突に出された理由が分からずにただうなずく。姉は東京でバンドを組んでいて、人生の良い時期がこれから来るはずだった。
「のんのこともテレビで見てるよ。すごいね」
伸行は18歳でお笑い芸人を目指して、21歳の頃にはほんの少しばかりテレビに出ることもあった。4人組のコントユニットで、伸行自身の人生の良い時期も、頑張れば、来るかもしれなかった。
「一緒にいるって言ったのは、嘘だったんだ」
何を言われているのかうまく理解できない。紫蘭は説明をしてくれなかった。
「俺は両手が塞がってるの。だからごめんね」
そう言われた直後に性器に振動が走って体全体が跳ねた。目を見開いて、大きな声を出そうとして、急に気づいた。今日は通夜で、親族も、親族同様の間柄の工場職員達も、みんな集まっている。いくつか部屋をへだてた向こうに、みんながいる。とっさに口を覆った。
「のんは賢いね。でも、別に、声を出してもいいよ。少し早くなるだけだから」
紫蘭は歌うようにそう言って、そうして――そうして。
それが入ってきて、痛いのか、気持ちいいのか、わからなくなった。
ねじ込まれた感覚はただただ痛くて体が裂けそうなのに、性器は勝手に何度も絶頂を迎えた。頭がぱちぱちとしびれて、混乱ばかりが齎される。そして紫蘭は腰を揺らして伸行の体を割り開きながら、カメラのフラッシュを伸行に向けた。まぶしくて目を閉じた。口を押さえて、目を閉じて、何度も首を振って拒絶を示してもなにも変わらなかった。
「兄さんが見てるよ」
紫蘭の言葉が耳をつたって頭に入ってくるまで、しばらくかかった。
物置の扉が開かれていた。全身がこわばった瞬間性器に当てられた振動が強くなって、ひっと声が漏れた。そこには紫蘭の兄が立っていた。月の光が邪魔で表情は読み取れなかった。
「ねえ、のん、兄さんが見てくれたから、これは秘密じゃない。誰にも秘密にできない」
助けてと言うより先に、紫蘭が言った。
「写真もビデオも撮った。これをみんなに見せたらどうなるかな。志乃生ちゃんも、のんの仲間も」
浅い呼吸の合間に漏れる、自分の声が奇妙に聞こえた。聞いたことのない、濡れた声だった。
紫蘭のそのときの顔はよく覚えている。紫蘭は子供の頃から、きれいな顔だった。
やっぱりきれいな顔だなと思った。
紫蘭は笑って言った。
「のんはこれから先の人生、ずっと俺から逃げられないね」

紫蘭の一家が夜逃げをしたのは、葬式を終えた翌日のことだった。

めちゃくちゃだった。何もかもが。紫蘭の父が経営していた会社は負債を抱えており、一番近い親族である伸行に全部降りかかった。正確には、伸行が「俺が一番近いから」と言って、それを引き受けた。実際は一番上なのは志乃生で、志乃生がどう思ったかは、わからない。伸行は昔から、ひとがどう思っているのか、分からない方だった。志乃生はいまでも東京にいる。伸行は芸人を辞めた。
祖父が残した工場を伸行が建て直すことはできなかった。破産をしたので、借金を抱えることはなかった。伸行は地元を離れて、タクシー運転手になった。あの広い家は売ったので、今はショッピングモールが建っている。
伸行が声を殺して揺さぶられた場所で誰かが笑って遊んでいる。
紫蘭は全部分かっていたのだろう――
伸行はなぜか、そう確信している。

28歳になった。通夜の話は誰にもしていない。あの写真や映像がどこかに漏れたという話は聞かない。姉は順調に音楽を続けている。伸行を抜きにしたコントユニットも、まあ、ぼちぼちやっているらしい。ごめん俺向いてないみたいだから辞めたいと頭を下げた嘘を、彼らがまだ信じているのか、伸行には判別がつかない。
伸行は昔から、人の気持ちが分からない方だった。
変わったことといえば、あれからオナニーもセックスもしていない。
それで何か問題があるわけでもない。紫蘭によく似た男を見かけるたびに吐き気を催すようになった以外、自由に楽しく暮らしている。もともと深く考えるたちではない。ただ紫蘭とは仲が良かったはずなのに何が起こったのかわからないだけだ。すごく良い奴だったはずなのに、そうではなくなったことが、理解できないだけだ。
それから。

通夜の夜、気がつくと紫蘭は傍にいなかった。カメラもなくなっていた。伸行は抱き上げられて、風呂に連れていかれた。伸行を洗っているのは、紫蘭の兄である陸空(りく)で、彼は伸行を風呂に入れ、頭をドライヤーで乾かし、腹は減ったか、と聞いた。
首を振ると、陸空は言った。
「紫蘭は連れていく」
そのときの陸空の表情はもう忘れてしまった。声だけ覚えている。
「おまえは紫蘭を手に入れられないよ」

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