外マドレーヌ─哉村哉子いろいろ置き場

ウルトラマリン・ブルー

※考証等まじめにやっていないので雰囲気で読んでください
※44歳×17歳夫婦/性的表現を含む父子関係の児童虐待/差別的表現
※異性装を否定する目的の作品ではありません

 

 

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1

キンバリー・トーマスは生まれ変わる三年前にエイモス・スカイラーのもとに現れ、エイモスの人生の全てを変えていった。エイモスにとっては、キンバリーに出会ったあとの人生が本当の人生であり、必要なものが全てある完璧な人生だった。そしてそれは終わったので彼は今蹲っている。
跳ねるような音を立てて小鳥が鳴いていた。それは穏やかな音であるはずだったのに、エイモスの完璧な人生を象徴するような音であるはずだったのに、今エイモスはそれら全て、小鳥の鋭い鳴き声も床を這う木漏れ日も、そして目の前にいる「キンバリー」も、全てが全く自分にとって異質なもののように思えたのだった。
エイモスを振り返る「キンバリー」の向こうの床はわずかな液体で汚れていた。エイモスの視界に収まったすべてのもののなかでそれは最も異質に見えた。それは精液だった。キンバリーはエイモスの妻であり、つまり女であって、キンバリーが精液を吐き出すようなことは起こりえるはずがなかった。ないはずだった。
のちに、エイモスを診た医師は、エイモスがその時狂気に陥ったのだと診断する。しかしエイモスは、その時陥ったのは正気であると自認していた。長い、長い夢を見ていたのだ。生まれ変わり? 馬鹿げている。
エイモス・スカイラーには若い妻がいた。彼女は死に、生まれたばかりの息子が残った。
ただそれだけの話。

エイモスは小さな街で牧師として勤めていた。両親が早くに死に、叔父の家に引き取られたエイモスは叔父から、死んだ両親を弔う勤めがあると言い聞かされて育った。つまり親が早くに死んだ子供の人生は死んだ親に捧げられるべきであるというわけだった。それはエイモスの人生ではなかった、多分。エイモスの生涯は親の死に捧げられていた。
エイモスは叔父の勧め通り牧師になった。そうして片田舎の小さな教会で44歳までの人生を過ごした。代り映えのしない人生、誰かにとって必要な仕事、けれど本当に何かを信じていたのかどうか、エイモスにはわからなかった。その人生はいつも霞がかかったようにぼんやりしていて、意味を持たなかった。彼女と会うまでは。
つややかな黒髪を波打たせ、いつも躍っているような緑の目をきらめかせた十七歳のキンバリーがどうしてエイモスを、うだつの上がらない中年の牧師を選んだのかはわからない。おそらく後腐れがなさそうだったから、身内もいない、地縁もない存在だったから、そして流されやすそうだったから。それだけの理由に過ぎないのだろう。「先生はきれいな目をしているのね」とキンバリーは言った。そしてエイモスは、母を喪って以来の女の肌に触れた。
「ねえ先生、あなたがわたしを愛するなら、わたしもあなたを愛するわ」
甘い取引だった。田舎町になかば隔離される形でやってきたキンバリーが、生来育った都会で起こした恋愛沙汰が問題視されてここにいるということは町中の人間が知っており、エイモスもまたそれを知っていた。だからおなじやり口だったのだろうとわかっていてエイモスはそれに溺れた。──真実だったからだ。
キンバリーがエイモスを愛している世界が「真実」なのだ。
規律と戒律。信仰と過去。人生と生活。全てがほどけて真実の形に作り替えられていく。
「先生はきれいな目をしているわ。ウルトラマリン・ブルー、金より高価な絵の具の色。聖母マリアとキリストのローブの色。あなたは財産を持っているのね」
それが財産だというのなら、エイモスの財産はたったそれだけだった。キンバリーがウルトラマリン・ブルーと高貴な色の名で呼んだ目だけがエイモスの財産だった。エイモスがそう告げると、じゃあ、とキンバリーは言った。
「それならわたしが先生の財産になる。ねえ、いいでしょう?」
エイモスは拒絶しなかった。エイモスの人生にはいつでも拒絶が存在しなかった。

キンバリーは親戚を言いくるめて自宅へ帰り、資産をまとめて戻ってきた。どういう手段を使って十代の娘がそれだけの金を回収したのかエイモスは聞かなかった。都合の悪いことを耳に入れる必要はないからだった。キンバリーは、エイモス自身が40数年の間気づかなかったエイモスの特質について、エイモスよりよほどよく知っていた。いたずらっぽい表情をその緑の目に浮かべたキンバリーは、「エイモス、あなたはいつも、都合の悪いことは見ないふりをする」と言って笑った。
キンバリーとエイモスは駅で落ち合い、長い旅をした。エイモスの人生で最も長い旅だった。旅費は全てキンバリーが支払った。そして彼らは明るい、とても明るい海辺に建つ、古い館を買い取り、生活を始めた。
働く必要のない日々はただゆるやかに過ぎていった。誰にも告げずやってきて町はずれの海岸に住み着いた夫婦を、近隣の人々はいぶかしんだのだろうが、エイモスは耳に蓋をした。彼らは雑然とした館をろくに掃除もせず、身なりも構わずに暮らした。子供のままごとのような生活だった。
日々が過ぎていくと、次第に、キンバリーは海岸にひとり遊びに行くことが増えた。エイモスは形ばかり泳ぎに付き合い、いずれ疲れて出かけて行かなくなった。
その日々はエイモスにとって完全に輝かしいものであり、そしてそれが完全に輝かしいのは、キンバリーの言うとおり、都合の悪いこと全てに蓋をしていたからなのだろう、そう、わかったのは、ずいぶんあとになってからだった。
岸辺での暮らしは三年続いた。やがて彼女は孕んだ。産婆は、キンバリーの体は小さすぎると言った。エイモスはなかば信仰を失っていたが、それでも堕胎は恐ろしかった。もしかしたら彼らはもうそのころにはなにもわからなくなっていたのかもしれない。エイモスは考えないことを選び、多分キンバリーもそうだった。彼らは子供について考えないことにした。寄せては返す繰り返しのリズム、ふたりきりの単調な生活、愛している以外について考えないように溺れていた。
キンバリーは子供を産み落とすことができず死んだ。産婆は、エイモスの意志とは関係なく、なかば無理やりに腹を割いて子供を取り出した。子供が生きていたのは奇跡だと産婆は言った。奇跡が起こったのならそれはキンバリーなのだった。キンバリーが死ぬはずはないので生きているのはそれはつまりキンバリーなのだった。子供は青い目をしていた。キンバリーなのなら本当は青い目ではないはずなのだが、青い目を持って生まれたことにエイモスは安堵した。ウルトラマリン・ブルーの目は、エイモスと同じものだった。
許したまえ、とエイモスは、もはや信じているのかどうかわからない何かに対して祈った。キンバリーの若い肌に過ちを見出した愚かさを許したまえ。ここに真実がある。キンバリー・エイモス・スカイラー。それが子供の名前であり、それはエイモスの子供でありながら、エイモスの妻キンバリーその人でもあった。
雇われた乳母はエイモスに極力話しかけず事務的にふるまい、エイモスにとってはそれは好都合だった。エイモスとキンバリーの世界は閉ざされているべきで、それを極力保つべくエイモスは尽力した。エイモスは人生のあらゆる時期において流され使役され導かれるままに生きてきたが、今エイモスは「キンバリー」を作り上げる使命を負っていた。エイモスが最も生気に溢れていたのは、この時期だったのだろう。
乳母の手を離れるとエイモスとキンバリーはふたりきりになった。エイモスは、幼いキンバリーに対して、あらゆる教育を施そうとした。キンバリーはしとやかなレディであるべきであり、あらゆる知識に精通しているべきであり、家事炊事もうまくこなすべきなのだった。それが妻の姿に似ているのか似ていないのかエイモスにはもう判断がつかなかった。ただそうであるべきであり、そしてその髪は黒くあるべきなのだった。エイモスは金糸のような髪に染料を塗りこんであるべき姿にした。長い黒々とした髪にリボンを結ぶ。キンバリー。私の妻。子供は甘い声で、エイモス、と彼を呼んだ。
肌に触れる。
──「その」話をすると誰もが驚愕するのでエイモスは笑う。エイモスは隔離病棟で「その」話をしている。妻の肌に触れることの何が驚くに値するものか。たとえそれが幼子の姿をしていたとしても、幼子の口であり、幼子の肉であったとしても。キンバリーはセロリを食べるとよく眠った。生まれ変わる前も、生まれ変わったあとも。
「先生、驚くようなことじゃあないんですよ。私とキンバリーは夫婦だったんですから。夫婦の誓いを誰かに立てたわけではなかったですけどね。でもお互い以外に信じるものもないのに誰に誓いを立てることができましょう。キンバリーの肉はいつもやわらかくて温かかった。それはいつでもです。生まれ変わる前も、生まれ変わったあとも」
そしてある日のこと、エイモスが抱き上げた体から滴ったものがエイモスに、「そうではない」を告げたのだった。
男の子です、スカイラーさん。
男の子です。
男の子ですよ。

産婆や乳母が噂していたのだろう、屋敷には既に幾人かの訪問者があり、しかしエイモスは彼らにキンバリーを委ねなかった。キンバリーの手を引き、エイモスは旅をした。長い旅をした。キンバリーの髪を染めた染料はいずれ落ちるだろう。キンバリーに与えた少女の服もいずれ似合わなくなるだろう。それはもうエイモスの知らない子供だった。しかし、だからこそ、目の前にいる「妻」がエイモスはいじらしく美しいものと思えた。エイモスは空想した。彼女とただ長い散歩をしている。少し用事があるから、彼女をしばらく知人の家に預けていく。
「しばらくの間ここで待っていて」
エイモスはそう言って、夢を見ている。
キンバリーは手を引かれていく。キンバリーは去っていく。エイモスの息子。エイモスとキンバリーの息子。少女の服を着たまま。髪を黒く染めたまま。不安そうにエイモスを振り返る。
エイモスを振り返る、その目の青いこと。
ウルトラマリン・ブルー。聖母の青。
エイモスが息子に譲った、たったひとつの財産。

2

エミーは「まあでも、トーマスというのはいい名前だね」と言った。「トーマスは男の子の名前でもあるんだよ。息子の名前の候補にも挙がってたよ」と。
キンバリーの結婚する前の姓がトーマスなのだった。キンバリーがエイモスと結婚する前、キンバリーはキンバリー・トーマスだった。でもキンバリーはトーマスという姓を持つ人々について何も知らない。生まれ変わる前のことを何にも覚えていないなんてことがあるものだろうか。
つまり論理的に考えて、ここにいる子供のキンバリーはキンバリー、エイモスの妻の生まれ変わりなんかではない。
そのことにキンバリーは、言葉をうまく操れる歳になるころに既に気づいていた。
そのころにはキンバリーは、食事の時間が来てエイモスが何の準備もしていないと、自分で豆の缶を開けて食べていた。豆の缶を開けてそれをエイモスに与えると、エイモスは、キンバリーがそれをするのは当然であると思っているかのように、ごく自然にそれを食べた。どちらが親なのかわからないような状況ではあったが、それは多分エイモスにとっては当然のことなのだった、キンバリーはエイモスの妻なのだから、料理を用意するのは当然のことだという意味で。
しかし幼い子供が家事を維持することができるわけもなく、そのような状況下において、キンバリーを支えたのはエミーだった。
食べるものに困ったら缶詰を開けて食べることと、缶詰がなくなりそうになったらエイモスに報告すること。缶詰はまとめて捨てること。それさえ守れば飢えて死ぬことはない。もう少し歳が上がったらこっそり料理を教えてあげる、とエミーは言い、それはきっと楽しいだろうとキンバリーは思った。エミーは言った。
「あんたが賢い子で良かったよ。あんたが今ほど賢くなかったら、あたしがいなくなった日のうちに死んでただろうよ」
「子供というのは死ぬものなの?」
キンバリーは子供を見たことがなかった。つまり、自分以外の子供を、ということだけれども。キンバリーが知っている子供はエミーの子供、「粉塵爆発」とやらでエミーの夫ともども死んでしまったというティモシーのことだけだったので、つまりキンバリーが知っているのは死んだ子供だけだった。
「親がいる子供は死なないよ。でもエイモスをあんたの親とは呼びたくないね。ということはあんたは死ぬ可能性が高いということよ」
「エイモスは私の夫だよ」
エミーは肩をすくめた。
エミーはキンバリーの乳母である。というか、乳母だった女性である。キンバリーの住む海辺近郊の町にもともとは住んでいて、キンバリーがもう大きくなったからという理由でエイモスに暇を出されるまでは、キンバリーとエイモスの住む古い館に住み込みで働いていた。エミーとその夫は町でパン屋を経営していたのだが、夫と乳飲み子が事故で死に、顔に受けた傷の治療費と建てたばかりのパン屋のための借金を背負ったエミーには、どんな仕事でもいいから、そう、町から離れた海辺にある辛気臭い古い館で正体不明の狂人じみた、というかまるきり狂人のもとで赤ん坊を育てる仕事でもいいから必要だったのである。
エイモスはキンバリーにいつもべったりだったが、エミーが言うには「赤ん坊の世話らしいことはからっきしやらなかった」。エミーは、キンバリーが生まれてから乳離れするまで乳を与え、死なないように見張り、守り、育て上げた。そうして仕事を辞めることになり、元のパン屋を改めて再開しようと考えているらしいのだったが、それはそれとしてキンバリーを心配そうに眺めていた。
いま、キンバリーとエミーは、キッチンで話をしていた。朝の早い時間、エイモスが起きてくるより早く起きれば、エミーと二人だけで話す時間が作れる。エイモスの目のないところでだけ話したいことが、キンバリーにはたくさんあった。
今キンバリーとエミーは、まだ明けない朝の薄い光を傍らに、エミーの得意のソーセージ・ロールが焼き上がるのを待っている。
キンバリーは、キッチンの隅に置かれた椅子に自分のクッションを叩いて膨らませて置き、そこに座って、背の高いエミーが台所で立ち働くのを眺めていた。子供はまだ触ってはいけないとエミーが言い聞かせた危ないものがたくさんある台所、エミーがいなくなったら、きっとこんなにこぎれいな場所ではなくなってしまうのだろう台所を、キンバリーはできるだけ覚えておきたいと思った。台所を触るのが許される歳になったら、自分もキッチンをきれいに整えるのだ、エミーがやった通りに──キンバリーはエイモスを伴わず家の外に出ることを硬く禁じられて育ったので、キンバリーが物心ついてから会ったことがあるのは、エイモスのほかにはエミーだけ、世界に存在するのはエイモスの他にエミーだけだった。
「乳母を辞めたらエミーは何になるの。つまり、私にとって」
台所の隅から、キンバリーはそう尋ねた。エミーは首をかしげて考えたあとで答えた。
「友達ってことにしてあげるよ」
「ありがとう。エミーははじめての友達」
そう言ったあと、今度はキンバリーの方が首をかしげる番だった。
「考えているんだけど」
「うん」
「私はエイモスの妻の生まれ変わりではないんじゃないかなあ」
キンバリーは歳の割にはきはきと喋った。エイモスが、大人に話しかけるように、つまり妻に話しかけるように、キンバリーに毎晩様々なことを語って聞かせるためだったと思う。妻に話しかけるように、というのは不思議なことだった。だってキンバリーはエイモスの妻であるのだから──エイモスが言うことが本当ならそうなのだから──妻に話しかけるように話しかけるに決まっていて、でも、そう、何かがおかしいとずっとキンバリーは思っていた。
エミーは咳ばらいをし、慎重な口調で言った。
「よく気づいたね」
「エミーは知ってたの」
エミーは肩をすくめた。それはエミーの癖であり、キンバリーは物心ついてから何度も目撃していのだが、おそらく、肩をすくめて流してしまうしかないようなことがこの館には多すぎたということもあったのだろう。
「生まれ変わりがあるかないかはわたしにはわからない。でも、生まれ変わりだと思えるようなところがひとつもないから、生まれ変わりなんかじゃないんじゃないのかな。あのねえ、キンバリー、あんたは、男の子なのよ」
エミーは厳かに、そして優しく言った。
「ティモシーと同じ?」
「ティモシーと同じ」
「キンバリーは、女の子のはずだね」
「そう思うよ」
「女の子は、エミーと同じ」
「まあ、そう、そうだね、エミーとあんたは違う、大人と子供だっていう以外にね。それ以外に違うところがあるの。だからあんたは、少なくとも女の子ではない」
キンバリーは吐息をつき、胸を押さえて、息を吸って、吐いた。
「エミーははじめての友達だからね。もし私がエイモスの妻で、キンバリー・トーマスだったんだとしたら、はじめての友達じゃないはずだよね。でも、その人たちのことを私は知らない。もし生まれ変わりだとしても、覚えていないんなら、関係ないんじゃないのかな」
「そうだねえ」エミーはじっとキンバリーを見つめ、言った。「そう、大事なことは、あんたはあんただということと、あんたは子供だということだよ。生まれ変わりかどうかはあたしたちにはわからないけど、あんたを大人みたいに扱うのはちょっと変だと思うし、エイモスが親らしいことをする能力がないのもよくないと思うよ。まあ、あたし、いなくなっちゃうんだけどさ」
「それは仕方がない」
「仕方がなくはないけど……」
エミーは言いかけ、また肩をすくめた。キンバリーは何かを言いたかったのだが、うまく言葉が思いつかなかった。キンバリーは毎日大量の言葉をエイモスから与えられ、ふんだんな教育を受け、語彙はおそらく子供にしては多い方だったが、いかんせん知らないことが多すぎた。キンバリーの生活はエイモスとエミーと古い館の中で完結しており、日常で使う言葉よりラテン語の聖句のほうがすらすらと口から出てきた。
多分キンバリーはそのとき、他人だから仕方ない、と言いたかったのだった。
他人だから仕方ないね。
「私はキンバリーの生まれ変わりではないのかもしれないけど、私はエイモスの妻だよ」
エミーは、違うよ、とは言わなかった。
キンバリーは「エイモスの妻」で、「現在二十七歳」で、けれど、キンバリーは子供なのだった。それが不思議なことなのかどうか、奇妙なことなのかどうかさえ、キンバリーにはわからない。しかしキンバリーは同時に、エミーがずっと、早くこの家を出ていきたい、エイモスのそばにいたくないと考えていると理解していた。
キンバリーはエイモスを「愛している」。そう言い聞かされて育ったから、そうなのだと思う。キンバリーとエイモスは「愛し合っている」。「分かちがたく結びついた夫婦だから」。それはキンバリーにとって大切なことだ。とても、とても。
けれど同時に、キンバリーはエミーを「好き」だった。好き、それもエミーが教えてくれた、キンバリーがある日エミーに、「エミーともっと話をしたい」と言ったとき。「エミーとお話をするほうが、ソーセージ・ロールを食べるより、したい」と言ったとき、エミーは「キンバリーはエミーが好きなんだね」と言ったので、キンバリーはそうなのだと思った。キンバリーはエミーが好き。キンバリーはエミーと話をしたい。たくさん。
その時間はほとんどなかった。だからキンバリーは早起きをする。早起きをするから、夜は眠い。セロリを食べた日はなおさら眠い。キンバリーはよく眠る。
明日からは、早起きをしても、エミーはいない。
「エミー」
「なんだい」
「おなかの中からのどの方に、冷たいものがあるのを、なんていうの。エミーが明日いないことを考えているときに、そうなることを、なんていうの」
「それはね、寂しいというんだ」
「エミー。仕方ないけれど、寂しいね」
キンバリーは椅子から降り、エミーに近づいて、エミーに抱き着いた。顔をうずめて、キンバリーは寂しさに支配されながら、しかしそれでも「夫」のことを、エイモスのことを考えていた。
もしキンバリーが生まれ変わりなんかではなく、そしてそもそも、「妻」ですらないのだとしたら。
ああ、そうしたらエイモスは、どんなにか「寂しい」ことだろう。

父が、とキンバリーは言う。
キンバリーは今「十二歳」だ。孤児院に入ったときに「三十一歳です」と言ったら怪訝な顔をされた。背格好から類推して、孤児院で、キンバリーはこれから「十歳」と名乗るようにと言われた。急に減ったのでキンバリーはたいそう変な気分になった。
「三十一歳」のとき、キンバリーはエイモスに手を引かれ、生まれてはじめて館を出た。そして汽車に乗って長い旅をした。人間をたくさん見た。 とてもたくさん見てすっかり疲れた頃に、知らない人の手に渡された。
エイモスは言った。「しばらくの間ここで待っていて」
だからキンバリーは待っている。
「十歳」のキンバリーは孤児院で一年間過ごし、頭が良いからという理由で、「十一歳」からは寄宿学校に行くことになった。キンバリーは自分が「十一歳」であること、エイモスは「夫ではなく父」であることに関しては妥協したが、服装に関しては妥協しなかった。
「私は女の子です」キンバリーはそう言い張り、無理を通して女子寮に入れてもらった。
だって女の子の服を着ていないキンバリーを、多分エイモスは見つけられない。
エイモスは、「待っていて」と言ったのだから、キンバリーは、「待っている」。
キンバリーは「十二歳」。寄宿学校の女子寮で、長い髪をお下げにし、女子の制服を着て、同室の女子にラテン語を教えている。
「ラテン語、誰に教わったの。学校じゃないでしょ」
「父が教えてくれました」
エイモスを父と呼び、自分は十一歳であると言いながら、「まだ」女の子の服を着ている。嘘をついている。自分は女の子ではないことを知っているのに、自分は女の子であると言っている。
同室の同級生であるモーリーンは、ラテン語の勉強をしなくてはならないからという理由で、「キンバリーが本当は男の子である」と知りながら同室を受け入れてくれた上級生である。彼女は教師にキンバリーについて報告をする。「キンバリーは変わった子」なので。
気が狂っている、という意味だと思う。
キンバリーは気が狂っている──と思われている──から、許されていて、同時に監視されている。モーリーンは憐れんだ目を細めてキンバリーを見やり、「あなたに女の服を着せて育てた父親?」と言った。
「ラテン語は正確なのね」
「私の父はいつでも正しいですよ」
「キンバリーは変わった子」
定型句を唱えるような平坦な口調でモーリーンは言い、実際それは定型句なのだった。気狂い、と言わない、優しい言葉を皆が使っている。キンバリーは気が狂っている。
それは事実でそれは事実ではない。
キンバリーは自分が女の子ではないと知っている。でも寄宿学校で男の子が女子の制服を着るのは校則違反だ。だからキンバリーは、自分は女の子だと言い張っている。それが嘘だと知っているので、キンバリーは気が狂っていない。
しかし同時に、キンバリーは信じている──信じていたい──信じていたいと思っている──強固に、必死で、しがみついている。
エイモスが迎えに来る。
エイモスは迎えに来る。
エイモスが迎えに来たら、キンバリーは「三十三歳」の「妻」に戻れるのだ。プラチナブロンドを黒く染め、キッチンを掃除して、ソーセージ・ロールを焼いてあげる。
──本当に?
その日は来るだろう。いずれ来るだろう。キンバリーは低い声になり、体の形が変わるだろう。今キンバリーの嘘に興味を持たない子供たちも、皆キンバリーの嘘に気づくだろう。皆がキンバリーのいつわりを指差すだろう。別にそれは構わない。
そうなったキンバリーを、エイモスは見つけられるだろうか。
おなかの奥からのどに向かって冷たいとき、くるしくて寒いね。
キンバリー・エイモス・スカイラーは寄宿学校の二年生で、女子の制服を着て女子寮に通っているが、男児である。それは表向き隠されている。キンバリー・A・スカイラーはプラチナブロンドをお下げに結い、真っ青な目をした、ラテン語の得意な「女生徒」であり、「父」を誰よりも慕っていて、今も同室のモーリーンに向かって堂々と言う。
「私の父はいつでも正しいんですよ」
写真の中でしか見たことのない、キンバリー・トーマスが、緑の目をしているとしても。

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