外マドレーヌ─哉村哉子いろいろ置き場

君の鍵になりたい

駅を降りてポケットを確認したとき、鍵をなくしていると気づいた。
自分の家の鍵ではない。ふゆの住みついている探偵事務所の鍵だったから、そしてどんなに仕事が少ないとしても探偵事務所の鍵は重要なものだったので、しまったな、と思ったのだが、思った気持ちのまま、いなくなってもよかった。
いなくならなかった程度には、重要なことなのだろう。多分、まだ、自分にとっては。
至ふゆはそろそろ三七歳になるのだが、背がひくいのと見目が整っているのとで、いまだに高校生のように扱われることがある。顔に年齢が乗らないのは、ズルをして生きてきたスティグマのような気が、しないでもない。
寒いのか寒くもないのかわからない、不自然な冬が来ていた。昼には十八度まで上がったのに、夜には零度まで下がるような冬。妙と言えば妙な気候だったが、気候のことはともかく去年の冬はもっと変だった。奇妙な事件に巻き込まれたかと思えば仕事のひとつもなかったり。なかったり、なかったり。
しばらくないような気もする。別に金が余っているというわけでもなさそうなのに、事務所の主であるところの十二月一日(しわすだ)ゆきは何も言わずにふゆを、事務所に置いて、置きっぱなしにしてもうずいぶん経つ。
なくしっぱなしにしてそのままいなくなるのは復讐のようだったし、復讐をしたいわけではなかったので、ふゆは駅員と交番に鍵のことを届け出て、夕方になるまでそれなりの時間を費やして、それから事務所の前に座り込んで、家主の帰りを待った。服の裏でかいた汗は冷えていって、月が妙に冴えているなと思った。
「……なにしてるんだ?」
車が止まる音がして、階段を上がってきて、小さなビルの三階、小さな看板が掛かった探偵事務所の一室。扉の前にべったり座って、待っていた。
「待ってた」
「そうじゃなくて。なんで入らないんだ」
「鍵を落として、まだ見つからないから、拾った人が入ったら良くないと思って」
「はあ。……はあ?」
ゆきはふゆよりも少しだけ背が高く、ふゆよりも多少は大人らしく見えるが、やはり同じように、三七歳には到底見えなかった。尻尾みたいに伸ばした後ろ髪を揺らして、少し考えて、少しあきれたようにして、しかしいつも通り半分くらい無関心に、「じゃあ、鍵を変えた方が良いかもな」と言った。
「今日はもう無理だけど。連絡寄越したら早く戻ったのに。明日やるか」
「鍵が見つかるといいけど」
ゆきは、うん、と、ふん、の中間くらいの音を立てて、ふゆがどいたあとの扉を開けた。アスファルトに座り込んでいた尻が冷たい。もう、零度近いだろうか。
ゆきは口数の少ない男で、それは無精が半分、特に何も考えていないからが半分、という風に、ふゆには思える。凍った星が落ちてきそうな寒い夜にはなおさら、話すのも怠くなるかもしれないし、そもそも怠くなるような冬を、ずっと心のなかに飼っているからずっと、必要以上には話さないのかもしれなかった。
よく知らない。
しかしゆきが知っているふゆの情報より、ふゆが知っているゆきの情報のほうが、ずっと多い程度に、ふゆはゆきのことを、更によく知らないはずだ。探偵のくせに。
ふゆは時々いて時々いない、野生の猫のようにこの事務所にいる。

曖昧に断らなかったせいで設置されたままのウォーターサーバーは、冬の夜には役に立つ。熱い湯をマグカップふたつに雑に注いで、インスタントコーヒーの粉をとかす。以前ここを使っていたひとが置いていったままだというダルマストーブをつけて、部屋に熱が回るのを、黙って待っていた。
ゆきには秘密はない。
ふゆの知らない秘密は、ゆきにはない。多分。自分の方がよほど探偵じみていると、ふゆはたまに思う。しかしふゆは役に立たない助手であることが重要だった。この場所が、価値なくここにあること、ここで十二月一日(しわすだ)ゆきが特に役に立つでもなくただただ留まっていること、出口がないこと。それがふゆにとって大事で、ふゆの秘密だった。
ゆきには秘密はない。ふゆには、秘密がある。
ゆきが、出口がないことに飽きたら、ゆきに打ち明けようと思っている。
でもゆきの人生にはずっと出口がなかったのだから、打ち明けなくてもいいのかもしれない。ずっと、ずっと、ここでこうやって、ストーブの揺れる炎を見ながら、薄いコーヒーを飲んでいるのかもしれない。全ての星が、凍って落ちても。
それは悪い感じではなかった。むしろそれこそを、ふゆは、求めているのかもしれなかった。
ゆきはコーヒーを飲み干すと、特別な言葉はなくシャワールームに入っていった。ふゆもシャワーを浴びた方が良いだろうなと思いはしたものの、腰掛けていたソファにそのままひっくり返って、目を閉じた。腹が冷えている。
寝入る瞬間人間の体は温かいのだそうだ。死ぬ瞬間はどうだろうな。

物音で目を覚ました。
ゆきは事務所の奥で眠っているようだった。ふゆはこういうとき、目を覚ますのが得意だ。こういうときというのは、鍵をなくしているような夜に。部屋は冷え切っていて、毛布の下で温まった体が急に冷えていく感じがして、しかしふゆはそういうのが嫌いではなかった。こういうときに役に立つちょっとした注射とか、ちょっとしたメスさばきとかで、悪漢を撃退できたら良いのにな、と思った。
ふゆの本業は医者である。ゆきは知らない。実は行き場のない猫ではない。ゆきは知らない。行き場のない猫のようなふりを、周到に行っているだけだということを、ゆきは知らないまま、いかにも無造作にふゆをそのまま、部屋で飼っている。
考えてはみたものの、漫画みたいなことはできないので、ふゆはあくびをして、扉の向こうで探っている気配の前にソファを動かして、ソファに転がり直した。毎晩これでも構わないかもな、とゆきはのんびり思いながら、いざとなったら医学の知識が役に立って格好良く振る舞えるもんだろうか、どうだろうな、と考えてみたりした。
扉が開かないと気づいたらしい、扉の向こうの相手は、そのまま去っていった。ふゆはソファの上でもう少し眠って、朝がくる頃にもう一度起きて、ソファを元の位置に戻した。君の鍵、とふゆは思った。家を守っておくための、君の鍵。
まあ、鍵をなくして君を危険に晒しているのも、俺なんだけどね。

二度寝だか三度寝だか四度寝だかの、短い睡眠のあと、起きたらふゆがまた、ウォーターサーバーから湯を注いでいた。この家で一番役に立っている。朝は粉のコーンスープにトースト。あたりまえのように用意されるふたりぶん。トーストは少し焦げている。
「おはよう」
「おはよう」
短い挨拶だけ交わして、服を着替える。寝間着みたいな格好で出歩いているけれど、いちおう外と中で着替えているので、昨日寝たときは外の服を着ていたな、と今気づく。まあ、大差ない。
腰掛けてトーストを囓っていると、「食ったら鍵を変える」とゆきは言った。
「そう」
「うちのに合うのが、手持ちにあったから」
鍵の話だ。
探偵というより何でも屋。ゆきは実際、なんでもできる。なんでもできるのだが、なにものかになるのが、多分嫌なのだろう。
だから、何の役にも立たないということになっている助手も、何でもないから意味があって、ここに置かれているのだろう。――ということにも、ゆき自身は気づいていないというか、言語化されていないのかもしれないけど。
全ての秘密を明かしたら、ゆきちゃんに「鍵を掛けて」どこかにしまっておこうかな。
たまにそう思うことがあるが、ゆきは多分、ふゆの秘密を解き明かすことはできないのだろう。今日も、何ひとつ興味がないという顔をして、薄くて焦げたトーストを囓ったあと、皿を洗うために立ち上がる。ふゆがなくした鍵のことは、こうして、なかったことになる。

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