外マドレーヌ─哉村哉子いろいろ置き場

異文化交流総菜録(2)村上春樹とクレソン

バターを多めにパンだねを捏ね、電子レンジを使用して発酵させている間にスモークサーモンを買いに行く。戻ったら整形し二次発酵。鶏肉を弱火で焼いて油を出し、油を取りよけるか捨て、酒と塩で軽く煮る。パンをオーブンに入れる。玉ねぎを薄くスライスし、氷水にさらす。卵、酢、油、塩を合わせ、胡椒と砂糖で味を調え、ツナを加える。アボカドをディップし、クレソン、レタスを洗う。きゅうりをスライスする。パンを取り出し、粗熱が取れたらバターとホースラディッシュ・マスタードを塗り、順次具を挟む。

スモークサーモンのサンドイッチのレシピは村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』を参照。

 

学校の名誉のために言っておくが、この大学は別に生徒にごきげんようと挨拶することを推奨しているわけではない。それはおそらくロココの個人的な趣味だし、警備のほうはごきげんようなどと言ったことは一度もない。

彼女たちとの奇妙な関係は去年の四月に遡る。思えば一年もこんなことを続けているわけだ。受け取り続けているこちらもこちらだが抵抗するのが面倒くさかっただけで、どちらかというと酔狂なことを、あまりにも酔狂なことをやっている彼女のほうに問題点はあると思う。罪悪感を感じる必要はないと思うし感じたくないしもう一年も経つのでそろそろ感じなくなってきた。と思う。

ごきげんようの件だ。

「ここじゃみんなそれ言うんですか?」

コピーを取るためにはコピーカードという専用のカードを買わなくてはならず、それはラウンジと呼ばれる要するにサービスセンター(サービスセンターだ)に当たる空間でも購入できるが、8時の始業前と17時の閉業後に買おうと思ったらコンビニに来るしかない。というわけでロココは夕方遅くにしょっちゅうカードを買いに来ていた。どんだけコピーしてるんだ。そしてその都度例の挨拶をして去っていった。

ロココ(当時はまだロココとは呼んでいなかった、ゴスロリと呼んでいた)は軽快に笑って言った。「わたし以外が口にしているところを耳にしたことがゆみちゃんはおありですか?」

「いや別に……いや、でも、ていうか、ここきたの春からですから、まだそんな」

「では覚えて頂きます。おそらくわたしだけの突発的な嗜好だと思われますのでご心配なく、そこまできちがいの多い学校ではありませんよ」

「ゴスロリちゃんは」

ゆみちゃん、と呼ばれるのに、まだ慣れていなかった。おまえ弓良だからおまえゆみちゃんだな、と前任の店長に言われて、はあ? と言ってからまだ日が浅く、正直戸惑いが苛立ちに至りつつあるところだった。この学校では教員も生徒もそれ以外の職員も、まるで幼児のようにあまやかなあだ名で呼び合うというルールがあり、暗黙のルールとかじゃなくて雇用契約の際わざわざ学長から口頭で通達されるルールがあり、いまだってむねもとには「ゆみちゃん えこひいきしません」と書いた名札がついている。笑顔で接客とか書けよと笑われたができないことを書いてどうするんだ。

とにかく苛立っていた。口が滑った。

「ゴスロリちゃんはきちがいっつーよりとんでもないお嬢さんに見えますけどね」

彼女が何を思ってその時微笑んだのか今をもって知らない。

絵本の中から抜け出してきたようなフリルのついたワンピースに、乙女の群れの中でもひときわ目立つ、子供のように見える痩身矮躯。背中まで伸ばした長い髪。そしておそらく大量の資料が詰まった革製のトランクをかるがると提げた彼女のそのときの微笑みは、それ以降見たあらゆる微笑みの中で最も美しかった。

「三点、ゆみちゃんの思い違いを訂正いたします。わたしはお嬢様ではありません。奨学金の他にいくつかの勤労と不労所得によって得たお金で学費を含むすべての金銭収入を賄っております。そしてこの洋服はゴシックロリータではありません。ロココスタイルです。そしてわたしはわたしのピントのずれた人生を愛しておりますので、そこは否定していただかなくても結構です。その上で老婆心ながら申し上げますが、ゆみちゃんはおなかがすいてらっしゃるのではないでしょうか」

「はあ」

「ゆみちゃん。ゆみちゃんの本当のお名前はなんと仰るんですか?」

「弓良です」

「ユミヨシさん」

ふふふっ、と彼女は声を立てて笑った。「ぴったり」

今ロココと呼ばれることになったロココは、トランクの他に提げているボストンバッグの中から、風呂敷包みを取り出した。

「召し上がってください。ユミヨシさんは村上春樹の小説の登場人物ですね。村上春樹の作品にはサンドイッチがよく登場します。スモークサーモンのサンドイッチの他にツナのサンドイッチとクレソンのサンドイッチときゅうりのサンドイッチを作りまして、わたしはきゅうりのサンドイッチが好きでこれも村上春樹の小説に出てきましてわたしは春樹作品の中で数多く扱われるきゅうりという概念を氏の作品の中では最も愛しているのですが、でも作る上でおもしろいのはやはりもう少し手の込んだもので、今日のポイントとしては露地栽培のクレソンが楽しみでした。なおクレソンは外来生物法の要注意外来生物に指定されております。外部から来た存在が浸食して全てを飲み込んでいくというのは作家のオリジナリティを彷彿とさせるものがあります。ご迷惑でなければゆみちゃんの新生活を寿ぐこととわたしのちょっとしたお楽しみを埋めて頂くためにゆみちゃんに明日もお弁当を差し上げたいのですが、如何でしょうか」

「家政科なんですか?」

ようやく口が挟めた。そこでようやく、コンビニの入り口付近、惣菜が置かれているエリアで、こちらを伺っている別の乙女がいることに気づいた。あまり乙女らしくない風貌だった。わたしがそちらに気を取られている間に、ロココは芝居がかった手つきで会釈をした。

「国文学の末席を汚しております」

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