6.かさね - 6/7

 魔法の呪文が世界を包む。そうしてその瞬間、世界が音を立てて改変される。不幸な人間はいなくなる。願ったとおりではないことは起こらなくなる。世界が少しずつ改変される。魔法の呪文を唱える。そうして世界が変わる。

 幼い似鳥喜多子は絵を描いている。
 妹の美波がやってきて、それをのぞきこむ。わあ、と声を上げる。
「きーこちゃんは、絵が、じょうずだねえ!」
 喜多子は目をまるくして、美波を見上げる。紫色で何度も引かれた線を、美波はなぞる。
「うさぎさんだ!」
「……そうよ。うさぎさん」
「かわいい!」
「かわいいでしょう?」
 喜多子は笑う。喜多子は美波と声をそろえて笑う。おひるごはんの音楽が鳴る。ふたりは手を取り合って、走ってゆく。

 改変された世界で、似鳥喜多子が世界を呪うに至る決定的なできごとは起こらない。美波は喜多子のかわいい妹だ。そして喜多子は充足している。喜多子は私を発見しない。私は喜多子に発見されないし、喜多子に殺されない。喜多子は誰も殺さない。すべての不幸はなかったことになる。
 そして私たちの先に起こったこと。それらのすべてが改変されてゆく。たったひとつ
の願いによって。
 喜多子と美波は仲の良い姉妹だ。
 喜多子はジャータカを生み出さない。
 世界にジャータカは生まれない。
 よって世界にカルラは生まれない。
 寧子とリツカは平凡な高校生のまま、大人になってゆく。
 自在は都会の父子家庭で暮らし、稲穂とも幼なじみとも、出会わず育ってゆく。
 世界は終わらない。

 魔法の呪文を唱えて世界を救う。
 それは呪いであると、私は思う。
 みんなが幸せでありますように。
 それは呪いであると、私は思う。

 最後の瞬間私の姉は微笑んだ、それは呪いであると、私は思う。

 真っ白い光は消え、私たちは中学校の廊下に立っている。
 ジャータカはもうそこにはいない。カルラももうそこにはいない。喜多子は中学生の少女ではない。私は魔法少女ではない。喜多子は笑う。喜多子が諦めたようにこぼす笑いは、まるで大人のようだ。そして私は気づく、喜多子はとうのむかしに、大人になったのだった。
「……わたしの負けだわ、夜長先生」
「いや」私も答える。私も笑っている。
 私もきっと大人のように見えるのだろう。
「私も同じように、敗北したんだよ、喜多子。魔法の呪文は唱えられた。私たちは幸福だ」
 私達は呪われて、憎悪は奪われ、ただ、幸福になるほかないのだ。

 美術室を出た瑞季は、ゆっくりと歩いて、プールへとやってくる。そして夕暮れがすぎてゆくまで、そこに立っている。水泳部員がひとりひとり出てきて、瑞季の横をすぎてゆく。瑞季はじっと待ち続ける。やがて最後のひとりが現れる。
「高梨さん」
 背筋をぴんと伸ばした、皆川弥生は湿った髪を押さえながら、瑞季を見る。瑞季は口を開き、けれど言葉がうまく、出てこない。
「皆川さん、あのね」
 瑞季は必死で言葉を探す。なにを話したかったんだっけ。けれど話したい言葉なんて、ほんとうは、なかったのかもしれない。ただ、わたしは。ただ。
「……皆月さん、わたしね、あなたと、話がしてみたかったの」
「そう」
 弥生は、少しびっくりしたように、目をひらく。そうして、ふと微笑む。
「高梨さんの名前って」
「うん?」
「瑞季ちゃん」
「うん」
「夏生まれなの?」
「そう。夏に生まれたの。どうしてわかったの?」
「夏は瑞々しい、季節だから」
「……暑くて、暑いばっかりで、乾いてて、違うよねって思ってたけど」
「そんなことないわよ」
 すてきな名前、と弥生は、目を細めて、言った。弥生の髪は湿って、瑞々しく、ああ、この人にとって夏とは、水のなかにあるのだ、と瑞季は思う。この人にとって、私は、水なのだ。
 かっと燃えるような感覚があった。なんだか泣き出したくて、かわりに瑞季は、ふふ、と笑った。弥生は首をかしげ、そして小さく、ふふ、と、笑った。
 そして瑞季はうまく言葉を見つけだす。本当ね、と瑞季は内心、親友に向かって言葉を放つ、本当ね、かさね、女の子は魔法を、使えるんだわ。だからきっとわたしのこの言葉も、魔法になって、皆月さんに届く。そうだったら、いいな。
「皆月さん、わたしね、あなたにずっと、あこがれてたのよ」
 肩を並べて校門を出てゆくふたりの見上げる空は広く、その街に山はもうない。そのことにふたりは、気づかない。

 そう、これは、藤堂かさねの物語なのだ。
 みんなが幸せであるといいねとかさねは願う。みんなが、花が咲くみたいに、幸福であればいいと。それは呪いだと私は呼ぶ。それは祈りだと呼ぶものもいるだろう。それは愛だと呼ぶものもいるだろう。それは無関心だと呼ぶものもいるだろう。そしてそれはあるいは憎悪かもしれない。女の子は魔法が使える。それを愛と呼ぶものは、たしかにどこかに、いるだろう。
 世界の全ては花のように咲き、人類はすべて皆美しい。世界はすべて美しく、それゆえにすべて幸福だ。藤堂かさねの手によってそれは為された。
 世界のすべては花となった。
 世界のすべてはジャータカとなる代わりに、花となった。
 かさねは、花のそばにいる。かさねは、美波の体を抱いている。美波はそこにいる。美波の体はそこにある。美波はおとなの女の姿をして、かさねの腕に抱かれている。かさねは腕のなかにある体を抱きしめる。
「ねえ」
 うん、と美波は答える。
「似鳥さんだよね。ちゃんとわかるよ。あたしにはちゃんとわかる。あなたは、似鳥さんなんだ」
「そうだよ」
「ちゃんとわかるよ。……女の子は、魔法が、使えるんだから」
 ふん、と小さく笑う声に、かさねは顔を上げる。おとなの男がひとりそこに腰をついていて、「男の子だって、それなりの魔法が使えるんですよ、……俺はあんまそういうの、あれだけど」と言う。
「ばかだね、オーコーチ君はだまってなさいよ」
 美波が笑い交じりに言う。呼ばれた男は、ははは、と明るい声をたてて笑う。男は腕を持ち上げ、指差す。かさねと美波は男の指差すほうを見る。
「ほら、山が消えた」
 そしてそこに、夕暮れがやってくるうすい紺色のなかに、ほっそりと白い月が、浮かんでいる。

 たとえばそんな話ですよマスター、と、少女たち、あるいはかつて少女だった誰かについて、かつて私の目であったものとして、オーコーチ君は私に語る。
 私はパニエで広がったベルベットのワンピースを着て、美しく鎖骨を晒すスクエアネックにリボンを結び、腰にコルセットを締めて、美しい化粧で顔を覆っている。そして頭には、兎の耳をつけている。私は全身を美しいかたちに整形し、まるで女のような姿をしている。いや、私は事実、いま、女なのだろう。そして私の名前は夜長映子だ。夜長徹はどこにも存在しない。
 毒のように濃い色をした飲み物を前に私は座り、オーコーチ君の飲むカクテルを、選んでやっている。オーコーチ君は物珍しそうにシャルトリューズを口にした。
 新しい世界でも、やはり姉は死んだ。そしてそれは姉なりの、なにかへの愛だった、そして、幸福さの示しかただったのだろうと、私は納得するほかなかった。なにしろこの世界はすでに呪われているのだ。私たちは幸福にならなくてはならない。魔法の導くとおりに。
「憎悪を奪われて幸福であることを強要されるなんて恐ろしい話だ。呪いだよ、それは。けれどそれを糾弾できる立場ではないことは、理解しているんだよ」
「なんか意味わかんないすけど」
「きみをカルラに変えたのは私だからね。私は君の自由意思を否定して戦いの道具にしたわけだ。結局皆、自分のやりたいことをやっているだけの、悪人なんだよ」
「ふうん、そーですか」
 オーコーチ君はなんだか意味がわからないという顔をして、ふうん、と頷く。
「きみはどうしている?」
「仕事が決まんなくて、マジ困るんですけど。なんでそこは修正してもらえなかったんだろうね。俺は全然幸せじゃないよ。あーあ、俺はカルラでも全然よかったなあ」
「似鳥美波に養ってもらえばいい」
「俺たちは友達ですよ」
 ふうん、と私は頷く。
 新しい世界で私は、中学校の技術工作の教師にはならなかった。だから私は、似鳥喜多子とは出会わなかった。似鳥喜多子は私を覚えているだろう。喜多子の、ジャータカ神話として、前世譚として、いつか恋人になるかもしれなかった誰かとして、私を覚えているだろう。私はジャータカだ。
 そして私は、夜長映子だ。
「君は結局、どのような時でも幸福なんだよ。可哀そうに、だから君の失職は、保険適用外というわけだ」
 私がそう言うと、オーコーチ君はぽかんと口を開き、それから、にやりと笑って身を乗り出した。
「あのさ。ニトリの小説、こんど映画になるんだ」
 オーコーチ君は、試写会のはがきを取り出して、私に見せる。
「そんで、俺と一緒に見るのは恥ずかしいってさ。なあマスター、俺と一緒に映画を見に行かないか」
私は目をしばたたかせる。
「それはデートの誘いかな」
「俺を養ってくれるとしたら、あんたじゃないか、マスター。俺をカルラにしたのは、あんたじゃないか、そもそも。失業した俺を拾ったのは、あんたですよ、エイコさん」
 オーコーチ君は笑ってそう言う。言うじゃないか、と私は思う。
「いいだろう。私を映画館まで運んでおくれ、私のカルラよ」
 私の細く白く、けれどやはりどこか骨ばった手を、オーコーチ君は握る。私は私のその手を、そう嫌いではない。これは呪いだろう。
 そして私は、幸せになるのだろう。

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