ジャータカが増え続ける街の外から、ジャータカを排除したこの街に入る方法はたったひとつ、魔法の使えない、ただの少女のふりをすることだ。そのようにして私は、この街にやってきた。
そうして同じ方法で、似鳥喜多子が、街にやってきた。ただの、少女の姿をして。
私は彼女の姿を目にする。彼女は学校の廊下を、堂々と歩いてゆく。かつて彼女がこの学校に通っていた頃、彼女はいつもうつむいて、顔を隠して歩いていた。自分が似鳥美波の姉であることを知られることを、彼女はひどく恐れていた。いま彼女はなにも恐れていない。堂々と顔を上げて歩く彼女はとても美しい。
「パステル・デ・ナタ」
喜多子は微笑んで、この街で使われるその呪文を唱えた。そうすると喜多子の目のまえにいた少年は、卵色の光に包まれて、ジャータカになった。魔法は叶えられる。どんなことでも叶えられる。簡単だ。似鳥喜多子にできないことはなにもない。
「みいちゃん」
廊下の真ん中で顔を上げ、ジャータカに取り囲まれた喜多子は、妹の名を呼ぶ。
「あなたはもう死んだのだから、なにもできないのよ」
それは、魔法の呪文だ。
美波の体に、虹色のナイフが刺さる。それはずっと、美波の体を貫いていたものだ。美波はそれに、気づかないふりをしていた。生きている、ふりをしていた。まだそこに存在している、ふりをしていた。けれど美波は、喜多子に殺されたのだ。あの日美波は、喜多子の魔法に、殺されたのだ。
「みいちゃん、あなたはもう死んだのだから、似鳥美波はもう、存在しないのよ」
美波の体が薄れていくそのさまを、オーコーチ君は/私は目撃する。卵色の魔法が消滅してゆく。美波の卵色の魔法が、喜多子の虹色の魔法に、打ち消されてゆく。私は走り出す。私は喜多子の名を呼ぶ。
卵色の魔法が終わった学校の廊下に、私はいる。私は、ジャータカとして、そこで、喜多子を見る。
『喜多子』
私は彼女の名を呼ぶ。
私は凡百のジャータカとしてしか喜多子の目に映らないだろう。しかし私は、喜多子の名を呼ぶ。
私が似鳥喜多子とはじめて出会った時、私は夜長徹という名前で、技術家庭科の技術科部門を教えていた。私はそのころから自分を私と呼び、そのようなふるまいは私の周囲から人を遠ざけた。私には友人はおらず、愛するものも持たなかった。私が愛着を持っているのは私の作った機械の鳥だけだった。姉はもう死んでいた。
似鳥は技術工作がきわめて下手だった。私は似鳥が小さな本棚を作り終えるまで、彼女と放課後を過ごした。
「先生は、私を、似鳥、と呼びますね」
喜多子はそう言った。
「当然のことじゃないか」
「誰も私のことを似鳥とは呼びません。似鳥姉、って呼ぶんです」
「おまえが姉なんだから、美波のほうが似鳥妹だろう」
そう言うと、喜多子は、ふふ、と笑った。
「私の名前も呼んでください」
私は戸惑った。けれど結局、その名を呼んだ。
「喜多子」
そうして喜多子は私を愛するようになった。私は彼女を愛さなかった。けれど彼女が私にくちづけを求めたとき、それを与えた。彼女が私の自宅へやってくることを望んだとき、それを与えた。彼女がふたりで会うことを望んだとき、それを与えた。私はおそらく喜多子を憐れんでいた。妹になにひとつ叶わないと言い続ける彼女のコンプレックスを克服させたいと思っていた。私は彼女の求めるものをなにもかも与えた。セックスさえも。
そして私は職を追われた。
私が彼女を憎んでいないかと問われたら、おそらくは、と答えるほかはない。私が彼女を憎んでいるからカルラを作ったのだと言われれば、そうかもしれない、と答えるほかない。けれど喜多子もたしかに、私を憎んでいたはずだと思う。
「私には姉がいた」
私はかつて、喜多子にそう言った。
「姉は私の目の前で死んでいった。風呂場に、手首をつけて、真っ赤に染まった浴槽のなかで、私を見上げて、幸せになってね、と言った。姉は、私を見て、微笑んでいた。とても、幸福そうだった。私は、彼女が私の目の前で死んだことを、憎んでいる」
「それは愛ですよ、先生」
「いや、私は姉を、憎んでいるよ」
「ねえ、私が先生の前で死んだら、先生は私を愛してくれる?」
「私は誰も愛さない。私は誰を愛することもない」
私は喜多子を傷つけたのだろう。私は学校を追われ、喜多子と私は二度と会うことはなかった。
喜多子が魔法少女となって、私を殺すまで。
なぜ私の姉は死んだのだろう。
けれどあの日死んだ姉の姿は、いまそこに立つ喜多子に、よく似ている。姉はあの日、微笑んでいた。姉は幸福そうに微笑み、幸せになってね、トオル、と言った。そうして私は呪いを受けたのだ。
私はあの日からずっと、姉を憎んでいた。私達は共にアニメを見た。私達は仲のよい姉弟だった。姉は私を愛していたはずだ。私を愛した姉を、私は憎む。私を捨て、世界を捨てた姉を、憎む。そうして私は私を憎む。姉を救えず、姉を殺した世界を変えられない私を、憎んでいた。
そして今私は似鳥喜多子を憎んでいる。私を手に入れようとして手に入れられず、私から世界を奪い、そして私を殺し、殺したくせにやはり私を手に入れられなかった似鳥喜多子を、憎んでいる。
幸せになってね、トオル。
愛とは呪いだ。
愛は世界を救わない。
愛が、世界を終わらせてゆくのだ。
『私はおまえに殺されてはいない』
私は喜多子に向かって言葉を紡ぐ。私はジャータカだ。けれどジャータカであっても私は意識を失うことができない。地獄だ。補食されることしかできない無力な生命体でありながら私はいまだに愛を知らない。愛を与えることができない。私はジャータカとして生きることができない。できないんだ。喜多子。
男の子は、魔法少女に、なれないの。
私はぐっと顔を上げ、喜多子をにらみ据える。私は魔法を使う。私は紫色の光をはなち、私の形を、変貌させる。
そしてそこには少女がいる。
私は変貌する。私はレースで彩られたブラウスと、紫色のなめらかなベルベットでできたスカートを身にまとう。背中で編み上げたリボンがひらひらとはためく。私は美しい。そして私がジャータカであるあかしとして、私の頭からはぴんと長い紫色の耳が生えている。私はジャータカだ。私はずっと、ジャータカになりたかった。
愛を知るものに。
「私は、魔法少女だ!」
私は叫ぶ。
それは魔法の呪文だ。
なりたい自分になることができる。だれだってなりたい自分になることができるのだ。魔法少女であれば。私はずっと、ジャータカになりたかった。私はずっと、魔法少女になりたかった。私はずっと、私ではないものになりたかった。変身して、魔法を使いたかった。私はずっと、夜長映子になりたかった。
私はずっと、夜長映子を、生かしたかった。
そして、喜多子を。
「喜多子。おまえは間違っている。おまえは、世界を、終わらせようとしている。それを私はおまえに、伝えに来たんだ」
私は、手にした鳥籠を持ち上げる。開かれた扉のなかから、無数のカルラがあらわれる。私のそばを舞い、そして、ほほえむ喜多子に向かって飛んでゆく。
喜多子のまわりにジャータカたちが浮かんでいる。ジャータカがぬるりと巨大な口をひらき、そこに、カルラが業火を、放つ。
オーコーチ君はまだ、美波のそばにとどまっている。まだ美波の卵色の魔法は、全て消えたわけではない。オーコーチ君を従えることができるだけ残されて、だからオーコーチ君はそこで起こったことをまだ、見つめている。
かさねは花のそばにいる。かさねは目を丸くして、虹色のナイフが刺さった美波を見つめ、美波に腕を伸ばす。ほとんど姿を失いかけている美波は、かさねの腕のなかに落ちる。
「どうしたの!」
『そいつはもともと、死んでるんだ。死ぬのが、終わっちゃうだけだよ』
美波のかわりに、オーコーチ君が答える。かさねは叫ぶ。
「やだよ、そんなの!」
『いやなら、あんたが、魔法少女になるしかないよ』
「……やだよ、そんなの」
弱々しい声で、美波は言う。美波は腕を持ち上げ、かさねの頭を抱く。
「藤堂さんは、幸せだと、あたしは思って」
「……うん」
「幸せな藤堂さんが、あたしは、好き」
「……うん」
「あたしは死んじゃったから、もうしょうがない。生き返ってもたぶん、きーこちゃんはあたしを殺すから、しょうがない。あたしが悪かったから、しょうがない。でも、この町を、守りたかったな。あたしは、藤堂さんが幸せでいられる、町を、作りたかったの。……藤堂さんは、幸せ、だったでしょう?」
「……うん」
かさねは涙をこぼす。けれどかさねはそれをぬぐう。かさねは美波の頭をなで、そうして、息をつく。
そうして、かさねは、言う。
「パステル・デ・ナタ」
美波は目を開く。真っ白い光ののち、ふたりの前に、小さなケーキが現れる。
美波はそれを手にして、言う。
「これが、パステル・デ・ナタだよ」
「お菓子?」
「そうだよ。ただのお菓子。ポルトガル語」
「ポルトガル」
「あたしはポルトガルでこれを食べて、幸せだったのよ」
美波はそれを手にとって、オーコーチ君を見て、首を傾げる。オーコーチ君は小さく笑い声を上げる。
『俺は食えないから、ご心配なく』
かさねは美波の手のなかのそれを取り上げて、二つに割る。ひとつをミナミに手渡す。
「食べて」
「……ね。さっき、呪文を唱えたとき、なにを願ったの?」
「似鳥さんが、幸せでありますように、って」
「……ふふ」
かさねは美波を見おろす。かさねはケーキの半分を手にして、微笑みを、浮かべる。
「ケーキを食べたら、そしたらあたしは、もう一度呪文を唱えるね。ねえ、だから似鳥さん、ケーキを食べて」
「なにを、願うの?」
かさねは迷わず答える。
「みんなが、幸せで、ありますようにって」
みんなが、幸せで、ありますように。
魔法の呪文が世界を包む。そうしてその瞬間、世界が音を立てて改変される。不幸な人間はいなくなる。願ったとおりではないことは起こらなくなる。世界が少しずつ改変される。魔法の呪文を唱える。そうして世界が変わる。
みんなが、幸せで、ありますように。

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