高梨瑞季は美術部の部室で、いつも窓のそばにいる。その窓からは、光に照らされてきらきらと光るものが見える。瑞季はそれを見ている。きらきらと光るものは、プールだ。夏がはじまるほんの少し前、ようやく水が張られたプール。プール全体が、ひとつの宝石のようだ。
「また皆月さん見てる」
瑞季のそばに、そんな声がある。瑞季が振り返ると、そこにはかさねがいる。美術部は出席する生徒が少なく、瑞季はいつも部屋を独占して絵を描いていて、そこにかさねはよく尋ねてくるのだった。あたしはきれいなものが好き、とかさねは言う。瑞季の絵はきれいだから、あたしはそれを見にくるの、と。
「見てないよ」
「うっそだあ。みずき、皆月さんのこと大好きだもんねえ」
「見てないよ」
瑞季はかたくなに言う。そのくせ、絵のなかに描きこまれた人物は、たったひとりだ。ほんのちいさな陰として描かれた彼女は、けれどその少女によく似ている。すっと伸びた背筋、水をのぞきこむ姿勢、絵の中で少女は、いまにも飛び込もうと水を見おろしている。宝石のようにきらきらと輝く、大きなプールに向かって。夏の始まるほんの少し前の風景。かがやきに満ちている。
「いまがいちばん好き」
瑞季は小さく呟く。
「世界がきれいで、いちばん好き」
「でももうじき夏だよ、やだね夏」
「暑いもんね、教室にクーラーつけばいいのに」
「皆月さんは夏、好きかなあ? プールで泳ぎ放題だもんね」
「皆月さんの話はやめて」
瑞季は顔をしかめる。くすくすとかさねは笑い、「ごめんなさーい」と言った。
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「お詫びに、ね、魔法の呪文、教えてあげる」
「なあに?」
瑞季は首をかしげた。
「なにか、願い事を考えて」
「願い事?」
「はやく」
瑞季は首をかしげたまま、窓を見た。窓の向こうで輝く、光るプールを見た。少女がいる。プールに飛び込もうとしている。瑞季は絵筆で少女を指さした。
「魔法の呪文は、パステル、デ、ナタ、だよ」
「パステル・デ・ナタ」
いぶかしんだまま、おそるおそる、瑞季がそう口にしたとたん、絵筆から卵色の光があふれ、プールを包んだ。少女がプールに飛び込んだ瞬間だった。その瞬間、プールの水は、美しいエメラルドグリーンに染まった。きらきら、きらきらと光るプールのなかを、少女が泳いでゆく。
「……なに?」
きゃーっ、と歓声をあげるかさねの横で、瑞季はぽかんと口を開く。
「魔法だよ!」
「え。なんで? どうして?」
「そんなの、あたしたちが、女の子だからだよ!」
かさねはひどく楽しそうに笑い、人差し指を瑞季に差し出して、宣言する。
「ほら、女の子は誰だって、魔法が使えるの、本当だよ」
アニメーションで使い古されたような言葉を口にして、かさねは、じゃあねと手を振って部屋を出ていく。エメラルドグリーンの光は徐々に消え、泳ぎ切った少女は、驚いて騒ぐ部員たちに囲まれて、あいかわらず、背筋を伸ばしている。
一匹のカルラが窓の外で、彼女たちをじっと見つめている。
そうだよ、わたしたちは、魔法が使えるの。
だれもが使えるわけではなかった。少女たちの間で広まっていく魔法の呪文を、唱えても使えないものはたくさんいた。男子生徒はかやの外だった。私は女子生徒の姿で潜入していたから、仲間には入れてもらえたのだが、それでも魔法は使えなかった。
女の子は誰だって魔法が使えるの。
しかし男の子はどうなるのだろう。私はかつてずっとそう思っていた。女の子は魔法が使えるとして、男の子として生まれた人間は、その権利を得られないのか、それは、不公平ではないのかと、ずっと思っていた。けれどそれはたぶん愛の問題なのだろう。魔法はささやかな愛のためにしか発動しないようだった。そして私は愛を知らない。
かつて夜長映子であった私の姉は、男の子には変身するベルトがあるからいいじゃない、などと言ったものだった。けれど私はベルトによって変身などしたくなかった。私はベルトの力で戦いたくなどなかったし、怪人を殺したくなどなかった。私はただ、魔法の呪文を唱えたかったのだ。
魔法とは愛の名であると私は今認識している。
そして私は愛を知らず、得ることも与えることもなかった。
愛とは、呪いの名だ。
女の子は誰だって、魔法を使えるの。
本当よ。
男の子は入れてあげない。
男の子は、魔法少女に、なれないの。
皆月弥生は水泳部の副部長だ。
水泳部が学校のプールを使えるのは夏の間だけで、そのほかの期間は公営プールを短い時間借り切ったり、体力づくりのためにマラソンをしたりという部活動を行っている。いくらでもプールに浸かっていられる夏がもうじき始まるので弥生は幸福だった。幸福なのだということが、ありありとわかる様子をしていた。弥生は物静かな少女だったが、それでもあふれる多幸感は、誰の目にもあきらかで、弥生を見ていると皆が笑顔になった。
「皆月さん、こんにちはっ」
そのはずなのに、とがった声で挨拶をしてくる少女がいて、弥生は内心眉をひそめながら、「藤堂さん、こんにちは」と返事をする。弥生の幸福そうな様子はすこし減って、朝練を終えて濡れたままの髪が、やけに重たく見える。藤堂かさねは明るい子なのに、どうしてだか、弥生に向かって、少しだけ攻撃的に振る舞うのだった。
「ね、皆月さん、魔法の呪文、教えてあげようか」
「……あなた、私のことが嫌いなんじゃないの?」
弥生が言い返すと、かさねは目をしばたたかせ、くすくすと笑った。
「違うよお! 皆月さんは悪くないけど、全然悪くないんだけどさ、あたしのほうに苛々する理由があるだけ、ごめんね。ね。魔法の呪文、教えてあげるよ」
数日前の午後、弥生が泳いでいるとき、プールが不思議な光りかたをしたことがあった。弥生はそれを思い出しているのかもしれない。すこし首をかしげ、それから、肩をすくめる。
「いいわ。教えて」
かさねは弥生の耳元に口をよせ、小さな声で、その言葉を教える。そうしてからかさねは、弥生の耳朶に、唐突にキスを落とす。きゃっ、と弥生が叫ぶと、かさねは笑って、廊下を走ってゆく。
「廊下は走っちゃだめよ」
弥生は小さくつぶやき、そうして口の中で、魔法の呪文を転がしてみる。
弥生は長い髪をしている。「どうして皆月さんは、髪を伸ばしているの」と私はいつだか、彼女に尋ねたことがある。弥生は肩をすくめて、「わたしの父が、女の子は長い髪をしているべきだという主義なのよ」と答える、弥生はいつも率直に答える。彼女が父についてどう考えているのか、私には伝わらない、他人の物語のように、弥生は答える。
弥生が魔法の呪文を唱えるところを、カルラは見ている。そこはプールに付属の更衣室だ。弥生の髪は、水泳帽のなかにいつもうまく収まらない、いつも弥生は眉をひそめて、ていねいに水泳帽に髪を押し込む。
今日弥生は髪をおしこむ手を止めて、後ろ手の指で髪を掴んだまま、小さな声で呟く。
「パステル・デ・ナタ」
卵色の光が髪を滑り、髪はするすると水泳帽のなかにしまいこまれる。弥生はうっすらと笑う。弥生は多幸感を身にまとい、更衣室を出て、プールに向かって、歩いてゆく。

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