櫻庭鈴緒(さくらば すずを)と櫻庭諄(さくらば まこと)という名前の姉と弟がいる。鈴緒は二十歳、諄は十五歳だ。鈴緒は女子短期大学に通っていて、諄はどのような学校にも通わずに、家でひきこもっている。諄は子供の頃体が弱く、小児科に入院していたことがあった。彼は特別な男の子だったので、甘やかされて育った。だから病棟でも、彼はことさらにわがままにふるまった。両親は彼を溺愛していたが、和菓子屋を経営する両親は日々を忙しく暮らしており、それはまだ若い祖父母も同じことだった。自然、毎日諄の世話をするのは、当時中学生だった鈴緒の役割になった。
鈴緒は学校が終わると急いで病院へ行った。諄は、鈴緒がくるのが遅いと言ってどなった。まーくんごめんね、と鈴緒は言った。ごめんねおねえちゃん遅かったね、ごめんねまーくん、さみしかったね。
まだ似鳥喜多子でしかなかった頃の魔法少女は、それはそれは、櫻庭諄のことが、嫌いだった。
喜多子は誰かを憎むのは良くないことだと考えていたから、その感情を懸命に否定しようとした。けれど大声で姉をどなりつけて、すずを、と呼び捨てにしているその傲慢な子供を見るたび、鳥肌が立った。あの姉はあんなふうににこにこ笑っているべきではないと喜多子はくりかえし思い、けれどそのくせ、喜多子自身もにこにこと笑って、なんにも不愉快なことはないみたいな顔をして、「諄くん、だめよ、いい子にしなくちゃ」なんて言うだけなのだった。
櫻庭諄は兎になるべきではない。
櫻庭諄は、殺されてしかるべき子供だ、
魔法少女は、そう考えた。
鈴緒はコーラを買ってきて、そして間違えたことに気づいた。それはダイエットコーラだった。でも、鈴緒はそれを、まーくんに渡した。
「これ、ダイエットコーラじゃん」
まーくんはそう言って、顔をしかめた。鈴緒はうれしくなって、でも可能な限り申し訳ない顔をして、「ごめんね、おねえちゃん、また間違えちゃったね」と言った。まーくんはもうちいさな子供ではないから、鈴緒があやまるとすぐに、「しょうがねえなほんとに、鈴緒はばかだからなあ」と言うだけでゆるしてくれるのだった。まーくんはいいこね、と鈴緒は思う。そんなにかんたんに鈴緒をゆるしてしまうなんて、まーくんはいいこ、まーくんはとっても、いいこ。
魔法少女はそこにやってきて、まーくんの上に、虹色のナイフを、突き刺したのだった。
鈴緒は悲鳴をあげて、倒れていくまーくんを見ていた。まーくんはくったりとまーくんの部屋に倒れて、散らかった部屋の、散らかったものたちのひとつみたいになった。でも鈴緒にはそれは、大事な弟なのだ。まーくんは、散らかった服や本やお菓子のくずなんかとは違う、鈴緒の、まーくんなのだ。
「こんにちは、スズヲちゃん」
魔法少女は振り返ってそう言った。
「わたしは魔法少女よ。あなたの弟は許されないから、殺すことにしたの」
「そんなことないわ!」
鈴緒は叫んだ。生まれてから一度も出したことがないような、大きな声が出た。鈴緒は手をのばして、まーくんの頭を膝の上にかかえて、抱き寄せた。そこにいるのはごみなんかじゃなくて、鈴緒の大事なまーくんなのだ。鈴緒のかわいい、ちいさな弟なのだ。
「スズヲちゃん、あなたはその子に利用されている、かわいそうな子なのよ」
魔法少女は、困ったような声で言った。
「愛されて、甘えることしか知らない子供は、死ぬべきなの。そうして愛を求めている人間は、みんな、神様になって、救われるべきなのよ。あなたも、救われるべきなの。
わたしは、みんなを救うために、魔法少女になったの」
「それなら、この子も救われないといけないの、この子が一番、救われないといけない
の!」
鈴緒はしっかりと弟を抱いた。かわいそうな弟、ある日部屋から出られなくなって、
鈴緒以外のだれとも口がきけなくなった弟、それなのに鈴緒にやさしくて、いつも鈴緒
を許してくれた、まーくんを救えない鈴緒をいつも許してくれた、やさしい弟だった。
「愛された子供だったとしても、まーくんはかわいそうなままで、わたしは、この子を、
いつだって、救えなくて」
鈴緒の目から涙がこぼれる。それを魔法少女は、じっと見ている。
「それでも、絶対にあきらめないよ。わたしはこの子を救ってみせる」
「……男の子は神様になるしかないのよ。男の子はみんな、世界を救うことは、できな
いんだもの。男の子はだれも、だれかを愛することは、できないんだもの」
「まーくんは違うわ」
「……そう」
魔法少女は首をかしげて、ほほえんだ。そうして銀色の光が魔法少女をぐるりとくるんだと思うと、そこにいたのは一匹の、白い兎だった。
兎は口を広げて、まーくんを、虹色のナイフごと、のみこんだ。
そして、紫色の卵を、吐き出した。
魔法少女は困ったように微笑んだ。
「あなたを信じてあげるわ」
魔法少女は消え、鈴緒と卵が残された。鈴緒は腕に、卵を抱えた。そうして鈴緒は、自分の部屋に飛び込んで、メイクセットを取り出す。
鈴緒、これやるよ、と言ってまーくんが、アイメイクのコンパクトを渡した。まだ病院にいたまーくんが、外出許可が出てそして、コンビニで選んで買ってくれたものだった。鈴緒、ちゃんとかわいいかっこしろよ、そう言って、くれた。鈴緒はまーくんが好きだった。鈴緒はまーくんが世界で一番好きだった。
鈴緒は卵の表面に、ラメのパウダーをはたき、眉を描いてグロスを塗る。鈴緒は震える指で、卵の表面を、なんども、なんども、なぜる。大丈夫よ、と鈴緒は言う。大丈夫、大丈夫よ。
鈴緒、これやるよ。
それが鈴緒の、魔法の呪文だった。
鈴緒はずっと、まーくんを愛するからね。
だから大丈夫。
「ねえまーくん、あなたは魔法少女になるの。立派な、魔法少女になるのよ。そうして誰よりも元気に、輝いて、まーくんの、望み通りの世界を作るために、魔法の、呪文を、唱えるの」

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