とある二次創作者の引退 あるいは「ようこそ、かなちゃん」

二次創作やめようと思ったんですよ。

 

2002年3月24日に「就寝時間」というサイトを開設しました(姉との合同サイト)。それから14年ですね、14年、二次創作をやっていました。前もって言っておきますがこれは悲しく終わる話ではないです。悲しい側面はあるけど。

2002年より前は何をやっていたのかというとずっとオリジナルを書いていました。富士見ファンタジア文庫か角川スニーカー文庫かそのころ出始めていた、あのころはラノベということばはなかったがラノベレーベルからのデビューを目指していました。コバルト文庫も視野にいれていましたがわたしはラブロマンスが致命的なほどに書けないのでまあ視野に入れない方がいいだろうと思っていました。当時まだわたしはBL書きではありませんでした。

なぜラノベワナビ(という言葉も当然なかったな……)だったのかというと、本当は児童文学レーベルでハイファンタジーをやりたかったのです。左翼の娘に生まれた話はしましたが、つまりわたしは「わたしが見たもの」や「感じたこと」を友人に語ることも文章に書くことも、極めてリスキーな環境で育ちました。ファンタジー文学という存在はわたしの救いでした。「全て架空であれば何の問題もないし、すべてメタファに仮託すれば言いたいことを言いたいだけ言っていい」ということだけが、あのころのわたしを救う唯一であり、わたしはそれを作る職業に就きたかった(ちなみにハイファンタジー作家を志す前は「マザーテレサみたいな仕事をしたい」と思っていましたが、ちょっとキリスト教について調べて「ひとつの宗教に真剣に向き合う能力はわたしには全くない」と思って諦めました、9歳くらいの時です)。

しかしわたしの憧れる範囲の作家は知的レベルが高すぎました。尋常じゃなく高すぎましたし、そもそも児童文学作家になる前に新聞記者や劇作家や放送作家や大人向け小説を出していました。あるいは文筆業以外の職を十年二十年やってから作品を発表していました。つまり「児童文学作家になるためには人生経験と教養が必要だ」という認識を、十代のわたしは、作家略歴を読みまくって思いました。

その点ラノベ、いやラノベって名前じゃなかったですがもうラノベって言っていいよね、ラノベ作家は「ストレートでラノベ作家」がそれなりにいました。「どういう理屈でそうなるのか」はわからないなりに、「なるほど、とにかくそういう実績を上げた人はいるにはいる、とりあえずワンチャン狙えるかもしれない」(ワンチャンって言葉もなかった……もうこのなかった言葉の話やめよう)と思いました。というわけで一生懸命各レーベルの新人賞情報を追ってできる範囲で新人作家の本を買ってということをやりながら小説を書いていました。14歳の就活。

そしてわたしは受験を控えた1999年の夏に唐突に「わたしは紫式部になることができない」ということに気づきました。

別に紫式部になりたかったわけではないはずなのにそう思いました。

何の話をしているかというと、あのクーラーのない暑い座敷(自室より微妙に涼しい)でほとんど夢かうつつかわからない精神状態で受験対策のテキストをこなしながら、

「ああもう疲れた、休憩に国語やろう国語、ああー源氏物語だ源氏物語おもしろいなあ中学では枕草子は読んだけど源氏物語まで手が出なかったけど高校生になったら全部読もう、紫式部はすげえなあ、千年後も十代の女子が読んで面白いなあと思うとは思ってなかったんじゃねえのかなあ、そしてわたしは絶対紫式部にはなれないな。あ。そうか。なれないんだ」

と思ったのです。

めちゃくちゃあたりまえのことで、別になりたいと思っていたわけではなかったはずなんですが、

「わたしは特別な人間にはなれない、たぶん一生なれない、少なくとも紫式部ほど特別な人間にはなれない、目指してる高校もたいしたとこじゃないしていうかいじめっこから逃れるためにできるだけ離れた高校狙ってるだけであって塾講師にはもう一個上狙えって言われてるけどいやなんだよそこ行くやつ多いから、って理由でわたしは将来をひとつつぶすわけだろべつに進学校に行ったから次が繋がるって必ずしもそんなことないと思うけどわたしは自分の行く学校がぬるい学校だということはもう知ってるしぬるい学校だからさほど人間関係も厳しくなくてへらへらしてられるって知ってるよ、だから選んだんだ、わたしはそれを選んだ、そしてたぶんこれから先も自分が傷つかずにすむ方法を必死で探して逃げ続けるしかない、これまでずっとそうだったしこれからもたぶんずっとそうだ、わたしは紫式部になれない」

「資本主義社会にフォーマットできないように生まれついたから、資本主義と戦いたくなければ生涯逃げるしかない、わたしは戦争はいやだ、誰かを救うための戦争であってもいやだ」

「わたしはぬるい場所に逃げるためにいま受験勉強をしていてだからわたしは知的レベルの高い賢い人間にはなれないしたぶん一生――――――」

そこでショートして終わり。

小説を書くモチベ―ションが消失したのは1999年の夏です。それからあともほそぼそと書いてはいましたが何のために書いているのかはわかりませんでした。投稿するつもりもありませんでした。フィクションが何のために存在するのか全く分かりませんでした。わたしはわたしひとりを救うための文章さえ書けなくなったまま目指している高校に無事受かりました。中学生と高校生の間を漂っている間におもしろい小説をたくさん読みました。「すごくおもしろい話はいっぱいある」、でも、「これをわたしも書きたい」とは思いませんでした。

 

そうしてわたしは2000年の秋にデジモンアドベンチャー02というアニメを観はじめて(交通事故をやって家で寝ていて暇だったのです)、その最終回で感動して泣いて、二次創作を始めました。

あの最終回の何にそんなに感動したって、「あらゆる人間は、自分のメタファとしての自分自身のアバターと、抱き合う権利がある」というエンディングです。つまりそれは『はてしない物語』だ。わたしが書きたかった話だった。こんなにシンプルに、こんなに、あらゆる人間にリーチする形で。

わたしはそのようにして創作意欲を取り戻し、しかしまだ自分のために自分で考えたテキストを書き起こすことはできず、ていうかそんなことしてる場合じゃないしいまわたしデジモンのこといっぱい考えたいんだからオリジナルとかどうでもいいし、みたいな、

感じでスタートして、14年。

 

14年の間いろんなことがありました。挑戦として二次創作をやっていたことも逃避として二次創作をやっていたことも承認欲求を満たすために二次創作をやっていたこともコミュニケーションツールとして二次創作をやっていたことも友情を誓うため血を混ぜ合わせるような二次創作をやっていたこともあります。あらゆるできごとがありました。楽しかったです。

 

やめる理由です。

2002年にサイトを開設するときに、わたしは自分で決めたルールがひとつありました。

「政治的発言をしないこと」。

創作者が政治的発言をすることに問題があるわけではありません。でもわたしは政治的発言をどんどんネットに発信していくにはあまりにもサラブレッドすぎた、というか、絶望的な話ばかりをすることになるということはわかっていた。そしてわたしは「二次創作をすることはそれをする二次創作者も含めてパッケージングすること」だという認識をした。「そのパッケージングにわたしの知っている社会認識を持ち込むのはかなり取り扱いが難しいからやめておくべきだ」。17歳でした。

そのルールはTwitterを始めてから大分緩和されました。それでも「政治的発言をして炎上するリスクを負うレベルの発言は控える」、「同人作家としてぎりぎりの夢を担保する」がわたしのなかでの「作品愛」への落とし前のつけかたでした。

「みんなそうすべき」だとは全然思っていません。ていうか案件として特殊すぎます。

 

しかしおそ松さんの話をしていこうと思ったらもう政治の話しないわけにいかないんですよ。作品の方がぎりぎりすぎる。いやもうおそ松さんの話それ自体はしませんが、観た結果考えたことは書いていくし、というか、それは、これまでずっと考えてきたけど書く場所がなかったことに過ぎないわけです。

 

というわけでわたしは「それなら二次創作のほうをやめよう」という結論に至りました。

5歳のわたしは友達に語る言葉を制限された。10歳のわたしはメタファだけを救済として縋った。15歳のわたしはぬるい社会に逃げ込むかわりにあらゆる言葉を失った。17歳のわたしは夢としてアバターをパッケージングするかわりに言わない言葉を選んだ。

そうして31歳のわたしはこれまで黙っていると決めていた言葉を放流するために別のアバターに乗り換えた。そこでは二次創作は扱われません。わたしはインターネットという資本主義(ここにあるのはあらゆる企業が介在して提示されるシステムであり資本主義であり、わたしはそこを通じて既に収益を得ています)にフォーマットしたし、このフォーマットにおいて、二次創作者を兼任するのは微妙なことが多すぎる。

これまでありがとうございました。これからもよろしくお願いします。二次創作者としての最後の情報ですが、とらのあなにいいかげん在庫を登録しましたので近日中にどうにかなると思います。書店委託できるほどはない微妙な量の在庫をbooth販売する予定も一応あることはあるので(手が回れば……)よろしくお願いします。

 

 

わたしが児童文学作家になりたいと思ったとき、わたしはこう思いました。

「わたしはわたしがわたしであることを、いつか誰かが誰かであることを肯定することで、肯定したい」

わたしがインターネットを選んだとき、わたしはこう思いました。

「わたしが思っていることと同じことを思っている人が、この広大なインターネットのなかに必ずいる。わたしはその人に向かって文章を書くために、一番届く形の夢になる」

 

 

インターネットへようこそ、かなちゃん。

ずっと君に会いたかった。話したいことがたくさんあるんだ。