自在は自室に戻る。ルームメイトの姿はそこにはない。自在は夕食を取りに食堂へ向かう。張の姿はそこにもない。自在は体を洗浄し、自室で眠り、起きる。張は戻っていない。自在が教育を終えて訓練の前に自室に戻ると、張の荷物はすべて、撤去されている。
自在は訓練の前に教官に尋ねる。
「張はどうしたんですか」
その答えは、しかし、聞く前からすでに、わかりきっているのだ。
「船を降りた」
降りてももはや、戻るべき場所などないのに。
消えた仲間たちは決まって、同じ言葉で片づけられる。船を降りた。それだけだ。そんなはずはないのに。けれど自在はそれで納得する、降りたのだろうと思う。地上にだれか待っている人間がいるのだろうと思う。新しいルームメイトがやってくるまで、あるいは編成が変わるまで、適当な相手を探してその日の会話のノルマをこなさなくてはならないと思う。
欺瞞だ、と声が聞こえる。
あなたはなにを憎んでいるんですか?
セシリアと話したい、と自在は思う。セシリアと会って、話をしたい。セシリアの美しい体躯を眺め、セシリアのなかにはいって、セシリアの甘い声を全身に響かせたい。
そして。そして。
訓練を終える。自在は自室に戻る。扉の張の名札は、もう剥がされている。かつて名札があった場所を眺め、自在は、張のファーストネームも、もう覚えていないことに気づく。あるいは、はじめから、記憶していなかったことに。
張は、死んだというのに。
自在は眠る。そして夢を見る。夢のなかで、ミヒは張だ。張は魔法少女となって、空を飛んでいる。張は金持ちの娘なので、魔法少女としてのドレスも、金ぴかだ。子供の頃体が弱く、千年以上の歴史のある伝統的な食べ物だけを与えられて育ったという張。
それからマツは、マツもいつだか死んだだれかの顔をしていて、うまいうまいと言って兎をはしから食べている。僕たちは生まれてから一度も、兎を食べたことがない、みんな兎以外のものを食べる気がしないと、言っていたのに。それから稲穂。稲穂は。
稲穂はセシリアで、セシリアは青いドレスを着ていない。ごくありきたりの、簡素なワンピースを着ている。セシリアの下半身は機械ではない。けれどセシリアは青銅色の肌をしている。そうして自在に向かってぎこちなく微笑む。わたしは死なないんですよ。セシリアはそう言う。自在はそれを聞いて、なぜだか泣いている。
そう、よかった。セシリアは死なない。そう、よかった。それはほんとうに、よかった。
僕たちは、兎を食べずに育てられた。
それゆえに、僕たちは、兎にならない。
人類は、僕たちを残して、みな、兎になった。
兎は、僕たちに、食べてくれとせがむ。
早く食べてくれとせがむ。
母さんは、僕を生んで、兎になった。
母さんは、父さんに向かって両手をあげて、
わたしを、たべて、と、せがむ。
僕たちは、兎を食べずに、育てられた。
ゆえに、僕たちは、いつまでも、人間だ。
ゆえに、僕たちは、彼らを殺さなくてはならない。
ゆえに、僕たちは、彼らを殲滅しなくてはならない。
それ以外に、人類が、生き残る術は、もう、残されていない。
自在は青銅色のセシリアの手を握る。セシリアが微笑んで、立ち上がる。ミヒと、マツと、張と、そのほかの人々がそろっている、そこは自在の村だ。
自在は、セシリアの手のひらに、キイをタイプする。
そこにいるすべての人間を、セシリアの閃光で、焼き払うために。
『ずいぶんへばってますね』
セシリアの声。甘く、やさしく、コクピットに響く。甘くて、そのくせそこに、自在は感情を見いだせない。なにも考えていないように思える、セシリアの声。
「はは。そう見える? ルームメイトが下船したんだ」
『よくあることでしょう』
「そうだね。よくあることだ」
自在はセシリアに恋をしているのかもしれないと思う。その感覚は自在を酩酊させる。ずっと禁じられていた、けれどもう、父は自在を監視してはいないのだから、どうだっていいのだ。
彼女の完璧なフォルムを自在は思い描く。青銅色に輝く彼女の、なめらかな機体、それがあれば自在は、どんなことでもできるのだと思った。鈍く響く崩壊の音より早く、僕は稲穂を殺せるだろう。
そうだ、僕は、稲穂を、殺すだろう。
「稲穂」
自在は彼女の声を呼ぶ。呼ばれるままに、セシリアは甘い声を返す。
『はい』
「僕が何を憎んでいるか、僕はちゃんと理解したよ」
『そうですか』
「嬉しい?」
『そうね』
セシリアは、ほんのわずかに、笑ったようだった。
『あなたのために、それを、喜びましょう』
キイを叩く。
敵はあらゆるところにいる。そしてそれはすべて人間なのだ。兎を食べなかった。だから人間を殺せると言われた。兎を食べずに育ったから、おまえは純粋な人間だと言われた。愛するなと言われた。殺せと言われた。兎たちが手を広げて待っている。口を広げて待っている。兎たちは、わたしを食べて、と言う。もしくは自在を食べようとする。
同じことなのだ。愛。
父さん、あなたは、兎と化した、化してゆく、母に、なにをみたのですか。
「稲穂」
キイをひたすら叩きながら、自在は懸命にセシリアを呼ぶ。自在を包む、甘い声を呼ぶ。
「稲穂、崩壊の、音が、うるさくて、きみの声が聞こえない!」
『わたしたち、ここで、死のうとしているわ』
セシリアが囁く。セシリアの声が自在を抱く。声だけが。そしてその声が遠い。現実ではないもののように。
『そして、それはとても気持ちのいいことだから、わたしはずっとあなたと一緒に、戦っていたい。一緒に、船を降りたい』
「稲穂、きみの声が聞こえない。僕の送るキイは、きみに届いているの。きみはずっと、僕になにも言ってくれなかった。稲穂。きみは、なにを見ていたの。稲穂。僕は」
『自在』
「崩壊の音が聞こえる。僕は崩壊に奉仕しているだけだ。なにもかもを壊して、崩壊に奉仕しているだけだ。滅んでゆく。世界の終わりが見える。それを僕がもたらしている。きみにキイを送って。稲穂。僕は」
『自在』
「僕は、きみを」
闇がある。完全な闇が目の前にある。閃光を自在は探している。セシリアはすべてを焼き払ってくれる。セシリアは、自在の、武器なのだから。
「僕は、きみを、殺すんだ」
閃光が。
ぼろりと涙がこぼれた。こぼれた涙が紫色だと、自在は知覚する。自在の目から、兎があふれている。そうして涙は自在の目の前でひとかたまりの兎となり、そのまま、膨張し、自在の、コクピットを、ぱあん、と、弾けさせた。
セシリアを、ぱあん、と、弾けさせた。
星が浮かぶ空に自在は放り出された。セシリアの体が、ちぎれてばらばらになって、宙を舞っていた。自在は手をのばし、セシリアの上半身をつかんだ。それをしっかりと、抱き寄せた。上半身を選んで、抱き寄せたのだった。セシリアはじっと、自在を見ていた。
「僕の夢は、叶ってしまった」
自在は、小さな声で呟く。
「僕はきみを殺したかった。僕がきみを殺したかった。それが愛なんだ。でもね、ぼくは、……ぼくはいま幸せだから、もっとずっときみと……ねえ」
「名前を」
セシリアの、薄い唇が動く。響かない、小さな声。
「わたしの名前を、知っていますか。自在」
「セシリア」
セシリアは微笑む。
「ようやく」
腕が、自在のからだのどこかをつかむ。弱々しく、けれどたしかに、つかむ。
「ようやくあなたわたしを見たのね、……ばかなひと」
星が消える。視界が真っ暗になる。ふるふると揺れるなにかに、自在とセシリアは包まれる。口のなかに、自在とセシリアは包まれる。飲み込まれる。それは自在が生み出した。それを生み出したのは自在だ。
「これであなたはわたしのものよ」
それは自在の涙だ。
目を覚ましたとき、彼女はもう自在ではない。彼女は青銅色に鈍く輝くドレスを身にまとい、空に浮かんでいる。彼女は自分の名前を知らない。森村自在であった記憶と、セシリア・エデンであった記憶と、彼女はどちらも持っている。彼女はどちらかではなく、どちらでもある。
彼女の目の前には兎がいる。彼女を飲み込み、ひとりの魔法少女として吐き出した兎だ。兎は両手を広げて、彼女を見つめている。
彼女は手にした槍で、目の前の兎を貫く。それは閃光となって、兎を焼き尽くす。
「わたしたちは戦うことができるの」
彼女は呟く。彼女は自身の涙を焼き払ってそこに立っている。みおろした地球は紫色をしている。すべて埋め尽くされて紫色をしている。
人間が兎を生み出し、兎が人間を生み出し、そしてそれが、愛であり、愛とは、滅びの、呪文だ。それでも。
「それでもわたしたちは選んで、戦うことができるのよ」
彼女はまた少し涙を流す。そして彼女はまっすぐに、地上へと降りてゆく。
船を降りて、地上へと、降りてゆく。

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