2.どこかで「まだ」生きている君へ

 「純喫茶 はるのゆめ」と、昭和っぽい丸いフォントで立体的に書かれた看板の前に立つ。どこもかしこも丸い、つやつやの茶色をした扉に、受け取った鍵を差し込む。内側から、どこか甘い、デミグラスソースの匂いがする。
 砂鉄は、声を上げる。
「客です」
 実際は客ではなくて、ただ、そういう取り決めの他者である、と思いながら。
 中に、晴通(はるみち)の影が見える。店長、としか認識していなかった相手の、名前だ。晴通丈二(はるみち じょうじ)。
 エプロンで手を拭きながら、「ああ、ありがとう」と、砂鉄に声を掛ける。これがもう日常になってしばらく経った。
 晴通の指示は相当細かく、一度写真を撮って送ってほしいとか別の店でも確認してほしいとか言われることもあり、日給三万というのが高いのかどうかは、砂鉄には判断がつかなかった。でも急かされることもなく、バイトとバイトの合間の時間帯でできたし、今日は無理と思ったらそう伝えて了承もされたので、特に問題なく、続いていた。
 収入が増えて嬉しかった。寄附先をひとつ、増やした。
「何か食べていく?」
 晴通は当たり前のように訊ねる。この部分が自分の人生にとってどういう意味を持つのかも、砂鉄は、計りかねている。が、晴通は食事をまるでまかないみたいに無償提供したし、食事代が浮くと有り難かった。
「食べます。これ、奥、置いときますね」
 砂鉄は言葉を返し、店を抜けて、奥の扉をあけ、家の中に上がり込んだ。他人の古い家の、木と、経歴が入り交じった、複雑な匂い。しかし人数が多くない家に特有の、角張った匂いもする、と砂鉄は思う。人間の家の匂いには慣れていて、そして砂鉄自身の家も多分、角張った匂いをさせているのだろう。

 貧困児童に関心がある。
 ユニセフのホームページには、「六人に一人の子供が極度に貧しい暮らしをしている」とある。割合で言うと国内の相対的貧困率もそれくらいだそうだ。砂鉄に分かるのは、それは少なくない、ということくらいだが、少なくない、ということは知っている。
 馬鹿馬鹿しいといわれるのが嫌なので誰にも言っていないが、砂鉄は、自分の人生のために必要な金は、十万、と決めている。というか、いた。「はるのゆめ」で飯が食えるようになったので、もう少し少なくてもいいかもしれないと最近は、思っている。
 今住んでいる家は家賃が二万五千円。スマホと原付は仕事で使うのであんまりケチれないが、そんなに食うほうでもないし、そもそも他のことに金を使おうとは思わなかったからこの生活をはじめたので、十万で十分事足りる。
 くわえてそもそも、一日に四時間くらいしか寝ない。うち一時間は工場夜勤の休憩時間に休憩室でひっくり返っている分である。バイトをしまくっていると、昼夜も土日も関係ない。働いていると、月収は多くて七十万とかになることがある。つまり六十万は、過剰分である。
 毎月三十万から六十万くらい、金がない子供を支援する団体とか、個人が募集している寄附とかに、ちまちま出している。そうしたいと思ったからそうしている。
 まだ「君」は生きているから、そうしている。
 六十万になったのは結果の話で、ここまでやるつもりはなかったのだが、六十万を放り出したところで貧困率が下がったりはしないのだから、たいした額とも思えなかった。自分のやっていることに意味があるとは到底思えなかったが、ないと言い切るには、もう、払いすぎているとも思った。額の問題ではなくて、繋がった人間が多くなって、自分が生きていることの裏側を支えているという気がした。
 それが過剰な感覚なのかは、砂鉄にはもうよくわからなかった。

「ごはんこれくらいでいい?」
「半分くらいでいいです。あんまり食うと眠くなるので」
 晴通は聞き分けのよい父親のように、そう、と言って、茶碗の中の白米を、半分に減らした。その日の「はるのゆめ」には、甘ったるいほど温かい光が差し込んでいて、まるで家庭、と砂鉄は思った。それは砂鉄の人生に長く、なかったものだったので、食わなくても眠くなる、と砂鉄は思った。
 でも世界の十五%くらいは、飯も食えてないのにな。
 頭の中で誰かがそう言って、でもそもそもそれは問題の本質では全然なかった。砂鉄が飯をろくに食わなくなったのは砂鉄の問題であり、ろくに寝なくなったのも砂鉄の問題であって、世界の貧困とは実は関係がない、と、ちゃんと分かっていたが、そんなに単純でもなかった。
 砂鉄は息をついて、眠気のままに、言った。
「あの。そろそろ聞いてもいいですか」
「何を?」
 晴通は機嫌良く訊ねた。
「何を、っていうか。全部」
「全部」
「なんで家、出られないんですか?」
 晴通はぼんやりと優しく、芯のない笑い方をして、言った。
「そう。出られないんだよね。呪われてるから」
 心地よい春の日差しが差し込む中で、嘘みたいに不穏に聞こえる言葉だった。

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