「純喫茶 はるのゆめ」の奥には、生活空間が広がっていて、かつてそこには晴通丈二の兄と、両親とが住んでいた。
「はるのゆめ」は父親がその父親、丈二の祖父から引き継いだ店だった。丈二の祖父母は既におらず、他界したと聞かされていた。「はるのゆめ」は、昔は別の場所にあったのだが移転してここに来た、らしい。住宅街のど真ん中に、移転した理由は丈二は聞かされていなかったが、祖父から仕込まれた味が良く、客足は遠くからも続いた。
しかし、丈二がまだ幼かったある日、丈二の父親は、「俺は客だ!」と言い捨てて、出ていった。あれも春の日だった。
その言葉、「客だ」と父が言った意味はながらくわからなかった。というより、丈二自身は、うっすらとした恐れによって、それを追求しないで来た。丈二には子供の頃から、逃避癖があった。
丈二の兄は歳が離れていて、当時はもう料理学校に通っていた。父の背中を見つめて、長く考え込んでいたようだった。父が見えなくなってからも、ずっと。
そしてある日の夜、丈二を起こして、言った。
「同じことを言って、兄ちゃんに着いてきな」
そう言った兄は、店の入り口の扉を内側からあけた。息を吸い込んで、「俺は客です」と、夜の闇に向かって言った。そうして、そっと足を踏み出した。濃い闇、ゆるくたゆたうような、静かな住宅街の闇に。
「丈二」
促されて、丈二はしかし、足を踏み出さなかった。
兄は迷い、きびすを返し、それきり、家には戻らなかった。
遠い街で誰かと暮らしはじめたことや、就職が決まったことを、母から伝え聞くばかりで、それきり会うことはなかった。今でも、どこでどうしているのか、よく知らない。
父がいなくなってから、店は母が切り盛りするようになった。もともと両親は、料理学校で知り合ったらしかった。丈二は大きくなって、他の家族と同様に学校に通い卒業して、店に立つようになった。
「丈二」
今度は母親が、夕暮れに立ち上がる。
客足が途絶えた店で、扉を開ける。「一緒に行こう」と誘う。そして口を開いて言う。「客です、って言ってごらん。血縁があっても、逃れられるって、せっかくお父さんが証明したじゃない」
丈二は首を振った。
「だってそれは、嘘だよ」
父さんも兄さんも母さんも、嘘をついて、出ていった。
「僕は客じゃない」
母は首を振り、家を出て、住宅街のまっすぐな道を歩いて行った。そのまま、戻ってこなかった。
家族が誰もいなくなった家から、出られなくなったと気づくまで、そう時間はかからなかった。
家の外側に、分厚く、見えない、ぬるい壁があって、出て行くことができなくなった。家の中に閉ざされて、出られなくなった。他の、店を継いだ家族は皆、これをずっと感じていたのだろうと丈二は思った。
丈二は、自分が、名実共に、この店を引き継いだ、と知った。
「だから出られないんだ」と晴通丈二は砂鉄の目の前で、言葉を最初に戻して結んだ。穏やかな表情だった。
砂鉄が言うべきことはたったひとつだった。
「なら、俺がいてよかったですね」
「そうだね。助かったよ。――多分呪われてるんだ、どこかの時点から、ずっと。この家に? この店に? この血に? 母は店を切り盛りしている間も自由に出入りできたけど、それもなんだかさみしい気もするな。店の主ではあったのに、認められなかったみたいでさ。誰からかは、わからないけど」
「自由になりたかったなら、好都合だったかも」
「うん。僕を連れて出ていくつもりだったのかもしれないし、僕が出ていかないって、分かっていたのかもしれない」
「押しつけるつもりだった?」
「受け継ぐつもりだった。うまくいくなら。結局うまくいってる。君がいるから」
こういうのはうまくいってるとは言わないですよ、とは、砂鉄は言わなかった。春の朝は温く、住宅街は静かで、客の気配はなかった。砂鉄は立ち上がろうとして、ふらついた。転びそうになって、カウンターから出てきた晴通は砂鉄を慌てて支えた。
「寝ていったら」
当たり前のように言われて、なんとか「そうします」と返した。
奥の部屋へ、入る。
砂鉄が買ってきた、ちょっとした買い物が、部屋の入り口に置き去りにされている。カプセルトイが三つ入っている。頼まれて回した。四回やってひとつかぶって、それは砂鉄にあげると晴通は言った。晴通は父親のようでもあり兄のようでもあり歳の離れた友人のようでも、もはや、あった。
奥の部屋の更に奥まで入ったのははじめてだった。テレビの前に、まだ出されたままの、季節外れのこたつを見つけて、布団の端をめくって体にかけた。こたつに入ったのははじめてで、作法がよくわからなかった。頬に触れる柔らかい布団が、急速に眠りへと誘った。
布団は干せるのかな、と砂鉄は思った。どこまでが「家」なのだろう。晴通の、閉ざされた狭い家。
「客かな」
誰かが言った。
「それとも、家族かな」

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