12.クリティカルじゃない

#novelmber 20.逆転

#novelmberは11月にお話を書く企画です。詳細X


「加害を受けていませんか?」

 まだ十代の頃、砂川(すなかわ)について、そう尋ねられたのを覚えている。

 大丈夫、と答えたけど、大丈夫だったのか、そして大丈夫なのか、俺にはいまでもわからない。でも、砂川が俺にやったことが加害だったとして、どうするのがお互いにとって正解だったのだろう。砂川は十五歳の俺のすべてを肯定して、すべてを差し出した。そして十八歳になったとき、俺は砂川とセックスをした。たしかに俺は十代で、でも成人していた。たしかに砂川は俺より十五歳も年上で、でも俺から誘った。

 小説家になったのは十五歳のときだった。俺は学校にろくに通っていない子供だった。父親からは放置されていた。放置するくらいなら母親に引き取らせた方がよかったんじゃないのか、とは思わないでもなかったが、うだうだ言われるよりよっぽどよかったので、俺は父親のことが嫌いではなかった。

 家のすぐそばには公営の図書館があって、俺は学校に行く代わりにそこにいた。訝しんだ司書から何度か話を聞かれたりもしたが、どうも司書と担任教師、あるいはもっと他の大人、の間で話がついたらしく、たまに担任が立ち寄るくらいで丸く収まった。別にいじめられていたわけでも勉強が嫌だったわけでもないが、学校は、話が入り組んでいるから、好きではなかった。登場人物が多すぎて混乱する。すっきりしない。

 小中と図書館に通い詰める間に、ずいぶんたくさんの本を読んだ。高校に進学しろと言われる前に進路を固めておかないと面倒だなと思った俺は、小説を新人賞に応募した。小説は首尾良く雑誌に掲載され、その後本になり、俺はちゃんと、本を図書館に寄贈した。馴染みの司書はとても喜び、なんならちょっと泣いていた。

 砂川と出会ったのは、デビューしたあとのことだ。俺は十五歳で、砂川は三十歳だった。当時の砂川は、澱んだ目をした髭面の、いかつい雰囲気の男だった。今は髭は剃っている。何でなのかは、知らないけど、頬に触れてもちくちくしない。

 俺にももちろん、砂川以前の人生があり、人間関係があった。父親はまあまあろくでもなかったかもしれないが、守ってくれる大人がいなかったわけではなかった。別に砂川がいなくても、それなりに大人になれたし、生きていけたはずだと思う。砂川が俺を守ってくれているから大人になったというわけではないし、砂川がしたことが俺の人生にすごく関係があるというわけでは、ないと、思う。

 だから、砂川が俺を「溺愛した」ことは、別に、加害じゃない。そんなたいしたことじゃない。

 のか?

 わからない。おまえは若すぎて判断能力がなく、砂川に人生をめちゃくちゃにされていることにすら気づいていないだけだと言われたら、そうなのかもしれない。でも俺は、俺自身の手で、スイッチを押してきたつもりだった、全部。

 自分で押したスイッチのひとつ、俺が判断して俺が選んだもののひとつに、砂川がいる。

 砂川を愛しているのかは、そもそも俺が誰かを愛したことがあるのかは、分からない。

 砂川が、俺の角砂糖だということしか。


「身近な人の名前だったんだ」

 家に人を招いたのははじめてだった。浅野茉優(あさの まゆ)と名乗った女は、ぐるりと部屋を見回しながら言った。俺は茶とか出さなかった、へたにいじるとバレると思ったので。

 さっき、砂川が出ていったのを確認してから、俺は浅野を連れて家に入った。砂川の実家というか祖母が遺した家、俺の帰る家、に、強盗みたいにこそこそと入って、窓に影が映らない奥の部屋でいったん落ち着いた。これから棚なんかを調べる予定だ。

 浅野の家も離レ森にあるということだった。俺は、離レ森の家に帰らずに、ホテルからまっすぐ浅野を回収しに行った。浅野は、小さい体に対しておどろくほどデカいバッグを持って現れた。別に、何か特別な装備というわけではないと思う。出会った日も同じくらいデカいバッグを持っていたから。そういうタイプなのだろう。ちょっとしたハイキングくらいのサイズの水筒を持ち歩いているし。

「何が?」俺は、砂川の気配がしみついた部屋に女の高い声が響いて落ち着かない、と思いながら、浅野に尋ね返した。

「表札に出てた。砂川。もしかして、砂川和(すなかわ なごみ)は、本当はあなたの本名?」

「違う。世話になってる人の名前」

「関係は?」

 うーん、と俺は唸った。関係。もう編集じゃないし、砂川はよく「マネージャーというわけでは……」と言葉を濁す。愛し合っているからセックスをしている、という言葉は不適切、と、少し前に話したこともある。じゃあ、何だろう。

「難しい」

「そう。質問を変える」浅野とは知り合ったばかりだが、鋭い話し方をすると既に気づいていた。「砂川さんはあなたにとって何?」

「角砂糖」俺は答える。

 浅野は笑った。

「スウィートな話」

「そう聞こえる? そうなのかな」

「ユア・スウィート・シュガー」

「いや、さすがに、そういうんじゃなくて……」

「嫌いな人の名前は偽名に使わないでしょう。さっきからそわそわしてるし……私にはあなたは、恋に憧れる少年のように見えるけど」

「さすがに誰だよ。二三だし」口元が歪むのが分かった。

 浅野と話し始めてから、俺は、自分に笑うという能力があったことを多分はじめて知った。話していて面白い。気が合う。楽しい。砂川にはそんな風に感じたことはない。砂川の前で笑ったことはないと思う。一度もないと思う。

「本を勝手に調べてもいいの?」

「砂川さんは俺を叱らないんだ」

「それなら、そもそも、勝手に上がり込むことなかったんじゃないの」

「いないほうが都合いいからね。砂川さんは調べてって言ったことはなんでも調べる能力がある人だ。頭も良いし仕事も早い。ちゃんとしてる。つまり、砂川さんはちゃんと調べて、その上で、俺に言いたくないから黙ってるんだと思う。砂川さんを詰めても仕方ない。知りたかったら、砂川さんがいないところを調べるしかない」

「これは、からかうんじゃないけど」浅野は、取り出して飲んでいた水筒を、バカでかい鞄に戻しながら言った。

「白城さん。あなたは砂川さんを評価していて愛着があって、勝手に家にひとを連れてきたことに罪悪感を抱いていて、つまり、砂川さんを、愛しているように、傍目には、思えるけど。でも、白城さんにとっては、関係は説明できないんだね。それって白城さんにとって重要なこと? そうなら、さっきのは、ごめんなさい」

「愛してる?」

 俺はオウム返しに言った。そのまま数秒硬直していた。浅野は黙って俺を眺めていた。そんなことないんじゃないかとは、俺はしかしそのとき、思わなかった。誰かが言った。「砂川は俺に加害をしているんじゃないか」砂川も言ったと思う。「俺たちの関係に愛し合うという表現は似つかわしくない」

 本当に?

「浅野さん」

「はい」

「泣きそうになってる」

「どうして?」

「わからない」

「言語化して。小説家なんだから」

「小説家は、言語化できないことを表現するのが仕事だよ。でも」

 反転、逆流、逆転。加害の反対側。

 俺は、ずっと、そう、言われたかった、の、だと、思った。

 砂川さんって俺の角砂糖なんだ。輪郭をくれる。その都度消えてしまうような脆い輪郭でも、砂川さんが俺を見て俺について話している間だけは、俺は「砂川さんの目に映る白城美里」でいられる。クリティカルな名前のつく関係がすべてじゃないと思うけど俺はずっと不安だった。輪郭がないから。いずれ溶けて消えてしまう。時間がない。

 俺は顔を覆った。言葉にはならなかった。でも別にいいんだ。クリティカルな言葉なんて陳腐だ。小説家は、万の言葉を費やして、心臓の痛みを語るのが、仕事だから。

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