18.ヒーロー

#novelmber 22.崇拝者

#novelmberは11月にお話を書く企画です。詳細X


 なかば森の一部と化した砂川家に、白城(しらき)は靴のまま上がり込んだ。改めてすべての部屋を確認した白城が、「浅野さん」と、茉優を呼ぶ。

「ここ見て」

 白城が指差した先には、ゆるく揺れる、オパール色の輝きがあった。手のひらに載るほどの大きさのそれに、白城は指を伸ばし、取り上げた。それは白城の手の上で輝きを失い、具体的な姿を見せた。ダークグリーンの、本革の小銭入れ。

 それは、白城の手の中で、ざらりと溶けてしまい、空間に消えた。

 白城はポケットに手を突っ込み、「これだ」と言って、並べてみせた。先ほどのものと色違い、ワインレッドの小銭入れだった。白城のもののほうが革が柔らかく馴染んでいるが、同じデザインのものだ。

「おそろい。砂川さんのもの?」

「多分ね。砂川さん、自分のも買ってたんだな」

「多分」茉優の声は少し呆れて響いたかもしれない。白城は少し居心地が悪そうに、眉を下げた。

「……砂川さんがくれたんだよ。スマホ決済にしたから財布いらないので捨てました、って言ったら、困ることがあるかもしれないから持っていてください、って言ってた。何万円か入れとくって。砂川さんがセットしたきり、中をあけたこともないけどさ」

「開けなさい。いまここで。すぐに」茉優は厳粛な声で言った。「というか、砂川さんの前で本当は開けるべきだった、あなたは。わけのわからない関係を、今後改善しなさい」

「まあ、そう、うん、俺が悪いのかな。そうか……」白城はぶつぶつと言いながら、小銭入れを開けた。「五百円玉、五百円玉、十円玉五枚、百円玉三枚、千円札、千円札、一万円札……が三枚、……あとこれ」

 白城がつまみ出したのは、細い組紐だった。財布と同じ、ワインレッドの紐に、ダークグリーンの紐が組み合わされて、繊細に、きっちりと、編まれている。

 茉優は無言で手を差し出した。

「なに?」

「貸しなさい」

「怒ってる……?」

「いいから」

 白城は、組紐を茉優の手のひらの上に落とした。茉優は白城の手首、利き手と思われる左手のほうを掴み、そこに組紐を巻き付けて、結んだ。

「ここに来るまで、あなたのお姉さんも含め、たぶんほとんどの人が、森に飲み込まれてしまった。でも私たちは無事。お姉さんは感情を飲まれたって言ってた。たぶん、感情があればあるだけ、森の――潜流の、一部分にされてしまう。私たちに感情がないわけない。そうだよね?」

「まあ、そうだね」

「どうして無事なのかわからないと思ってたけど、たぶん、この紐が、関係ある。財布にお金以外のものを入れるのは、お守りだから、大抵は」

「そうかな」

「わからない?」

「何が?」

 言い募る言葉を止められなかった。動揺している、と、茉優の奥で警鐘が鳴ったが、それでも。白城の姉と、白城と、砂川の、奇妙な関係の片鱗を見て、動揺していて、だから。踏み込みすぎだとも思った。それでも。

「砂川さんは、あなたに、無事でいてほしいと思っていたんだよ。そして多分、今も、無事でいてほしいと思ってるよ。砂川さんは既に潜流に飲み込まれている。それだけの大きな感情があった。そして、潜流に飲み込まれてなお、あなたに財布を見せた。財布の存在を思いだして、組紐を見つけて、あなたがちゃんと身を守るように。ねえ白城さん、それは」

「違うよ」

「白城さん」

「違う」

 白城は手を伸ばし、茉優の手を掴んだ。

 見下ろした茉優の手は、溶け始めていた。オパール色の流れに。感情が、流れに溶け込んでしまう。茉優の激しく揺れる感情が、流れと一体化しようとしている。

 あたたかくてかなしい感覚が全身に回り始める。向こう側に行けたっていいという、甘い感覚。

 白城は茉優の手をしっかりと握った。流れから断ち切られ、ふと全身が寒くなる。

 白城は硬い声で言った。

「砂川さんは俺に、ヒーローでいてほしいだけなんだ」

 白城が触れたところから、オパール色に揺れていた輪郭が固定される。白城の指が触れたところから、世界から拒絶されているようで、寒気がする。甘く溶けていく世界の中で、白城がはっきりと立って、茉優を見ていた。冷たく硬い視線に輝きはない。

「俺はヒーローなんかじゃない。……でも浅野さんはそうなれる。浅野さんは、行けばいい。森の奥でも、どこでも。紐はあんたにあげるよ。これ、外して」

「外さない」

 茉優は首を振った。自分の感情が邪魔だと、こんなに思ったことはなかった。

「あなたは私を守って、森の奥に行くの。感情のまま潜流の一部になって溶けて消えて、これまで目を逸らして蓋をしていたことから解放されるなんて、許さない」

「目を逸らしてない。俺はずっと見てた」

「何を?」しかし感情のまま、茉優は言い募った。「自分の心の潜流まで、指を差し込む必要だって、あなたには、なかったんでしょう!」

 白城は手を持ち上げた。殴られる、と思った。しかし白城は茉優の肩に腕を回し、抱き寄せた。強く。息を吸って吐く、白城の呼吸が聞こえた。そして自分の荒い呼吸も。

「輪郭が」

 白城の声が、近くで聞こえた。

「自分の、輪郭が、なくなって消えるのが、あんなに怖かったのに」

 知り合って間もない男の腕に急に抱き寄せられたのに、茉優の精神の輪郭が整いはじめていると分かった。それが組紐の効果だとは、茉優は、思わなかった。気を許した相手だからだと思った。茉優は息をつき、腕を回して、白城の背を撫でた。

「砂川さんのいるところにいってひとつのものになれたら、もう、砂川さんのためのヒーローじゃなくて、いいんだったら……」

「泣かないで」

「泣いてない」

「砂川和さんを探して、一緒に話してあげるから、泣かないで」

「泣いてない。……浅野さんは、探す相手がいるだろ」

「あんな女!」茉優自身も泣き出しそうになりながら、しかし茉優は笑っていった。「あいつは何もかも最悪なんだから、少しくらい焦らしてやってもいい。神狩(かがり)はどうせ、わたしをちゃんと待ってる」

「自信。……神狩さんを愛してる?」

「別に愛してない。ただ、一緒に生きているだけ」

「俺もそうだと思ってた」

 茉優が身じろぎをすると、白城は腕の力を緩め、ただ茉優と手を繋いだままで身を離した。急にごめんね、と呟いた白城は、抱き寄せたことを謝っていたのだが、それ以外の要素も含まれていたと、茉優は、感じた。でも茉優は謝らなかった。抱き寄せた話にしておいたほうが、多分、よかったから。

「一緒に生きてほしいって、砂川さんに、ちゃんと話して」

「……そうするよ」

 顔を上げる。木々は黒々と整列している。少し前まではまだ「家の中がなかば森」だった場所は、すっかり「家の残骸が残る森のただなか」に変化していた。あちこちでゆるく揺れる「流れ」が見え、それらは、一定の方向に進んでいるように見えた。

 手を繋いだまま、進んでいく。

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