森の中を歩いている。
それほど大きくもない町の、それほど深いはずもない森を、オパール色の流れが流れていくのを追って歩いていた。しかしいずれ流れも消え失せ、あとはただただ暗く、静かだった。風もなく、鳥も虫も鳴かない。進んできたと思える方向にこのまま進むしか、やることはなかった。
茉優と白城自身も無言だった。過剰な言葉のあと、続きの言葉が見つからないまま、手を繋いでいる。ただ必要だからという理由で繋がれた手だったが、それ以上離れずにいられるという意味でも必要な接触だった。
「蛍」
小さな声で白城が漏らし、茉優は、顔を上げた。白城はもう一度、「蛍」と言った。
視界の先に、光が見える。
「ひとつ見つけたら、どんどん、次のが、見えるようになるんだ。世界が変わったみたいに」
白城の言葉通り、ひとつ、ひとつ、またひとつ、光が見えた。
窓の明かりだった。
目の前に、見知らぬ町がある。
木々が途切れた先に、青灰色の家が並んで立って、闇の中に光を漏らしていた。妙に青白い肌をした、光るような目をした人々が、家の前で煙草をくゆらせている。煙草の煙は、どこか甘いような、懐かしい香りだった。
彼らは、茉優と白城をみとめると、彼らは立ち上がり、礼をした。わからないながらも茉優は礼を返し、突っ立っている(というか、「見て」いる)白城の背中をどついて礼をさせた。
ローブをかぶった背の低い影が、近寄ってきて、もう一度礼をし、言った。
「『両親』はこちらです」
「ここはどこ?」
相手は穏やかな声で答えた。「離レ森ですよ。……我々はずっと、ここに住んでいるんです」
それきり説明もなく、茉優と白城は、町の中央に聳える、塔に案内された。案内人は礼をして去っていき、またふたりきりになる。
町の家と同じく、青灰色の石で造られた、無骨な印象の塔だった。その一階から、階段を登っていくすべての階に、本、あるいは手記、あるいは記録、と呼べるものがおさめられて並んでいた。紙の匂いに混ざって、ほんのわずかに、あの懐かしい香りが漂っている。これは何の匂いだっただろう、と思い返しても、記憶のどこかに蓋があって、うまく思い出せない。
「こんばんは」
最上階まで階段を登ったとき、奥から声が聞こえた。
男が一人、大きなテーブルについていた。
学者風の老人だった。静かな、疲れた表情で、こちらを見ていた。茉優も白城も黙ったまま、相手の言葉の続きを待った。
老人は続けた。
「私は、『おとうさん』です。もう、生まれ持った名前は忘れてしまったのでね。そのように呼んでください。あるいは、『両親』と」
「離レ森の『両親』? あなたたちの『愛』が、潜流の源だと、聞いたことがある。『おかあさん』はいないの? ワンセットのはず」
『おとうさん』は困ったように笑った。「愛ね……」
「あなたに、聞きたいことがいろいろあるんですが、私は」
「まず、席に着いて。何か食べますか」
「いいえ」椅子を引いて席に着きながら、茉優は首を振った。異世界で食事をして、ろくなことがないのは、「伝統屋」の世界では常識だ。白城はやや不満そうにしていたが、手を握り返すことで、いいえ、が正解のはずであるということを伝えた。
向かいに『おとうさん』、こちらがわに茉優と白城が、向かい合って座った。最上階にはいくつかたいまつが灯され、空間を色の意味でも暖かさの意味でも温めていたが、それでも底冷えがした。離レ森に似ている、と、確かに思った。あるいはこここそが、離レ森と呼ばれるべき場所なのだろうか。
「ここはどこ?」
「離レ森。流れの内側に入ろうとし叶わなかった、占い師や記憶屋が、永遠の時を過ごしている場所。外の世界では、ここを、『壁の内』と呼んでいた。今、もう、壁はなくなってしまったみたいだけれど」
「どうして壁は消失したの?」
「占い師が、潜流をかき混ぜて、境がわからなくなってしまったから。――あなたのお探しの方ですよ」老人は白城の方を見た。茉優の手を握ったままの白城の手に力がこもった。
「砂川さん?」白城が固い声で問いかける。
「近く過ごしていたら、流れは混ざるもの。あなたには、あの占い師の指先が触れている」
「砂川さん、は、どこに行ったんですか」
「流れの中に」
「俺は」
「そのひとを、連れ戻したいと思って来た、私たちは、ここに」
乱れてかすれる白城の言葉をひきとって、茉優は言った。「そのひとが原因なら、連れ戻すことで、町を元に戻せるんじゃないですか? 少なくとも、手がかりにはなると思っているんだけど」
「――私を探しに来てくれたんじゃなかったんだ?」
とても、優しい声で、老人は言った。
口調が変わった。知っている、と茉優は思った。体が震える。スイッチが入る。息が上がる。目の前にいる、相手を、茉優は見つめ、静かに、呼んだ。
「ウイ」
老人は、神狩(かがり)ウイ、茉優の妻の口調で、ひたすら優しく言った。
「そう。ここにいるのは、私。『両親』はもう行っちゃったよ。私があとを引き継ぐと言ったから、私が次の『おとうさん』になると宣言したから。ならないけどね。全然なりたくないけど。『壁の内』にいる人たちは、皆、潜流の向こう側に旅立ちたいと望んでいるんだ。潜流の向こう側にうまく旅立てなかった人たちが、機会を待って、ここに住んでるんだよ。向こう側のほうがいいとは限らないと思うけどね、私は。でも多少マシかもね? 世界って最悪だから、ねえ、茉優さん、そうだよね」
「そんな話はいい」茉優は、つとめて息をなだめながら、言った。
「聞きたいことがある」
「なに?」
「あのビデオは何?」
「ああ。美しい茉優さんの美しい背中。――意識を引きつけないとならなかったから、離レ森に。感情がたくさん欲しかった。私自身の感情を、潜流に引きずり込まれないための、鎧だね。ポルノって、感情がカジュアルに回収できて、便利」
「それで?」
「うん」神狩ウイは、老人の顔に神狩自身の表情を浮かべて、目を細めた。
「それに、茉優さんに、もっとすべてを、憎んで欲しかった。だって、一緒に来て欲しいからさ。温かい生活なんて、幻想だよ」
「どこに行くとしても――」茉優は立ち上がった。黙り込んで見ていた白城の手を引く。
「悪いけど。私は、先に、白城さんの大切なひとを、見つけてあげないといけない。約束したから」
「そう」神狩は手を差し出し、指先を、テーブルに触れさせた。テーブルはとたん、オパール色に溶け落ちた。青灰色の世界が一瞬で、踊る色に染め上げられる。
「『両親』がずっと邪魔だったんだ。頭の硬い人たちでさ。でももう、行ってもらったから、向こう側に。皆行ってもらうこともできる、このまま。私、ずっと考えてた、茉優さんに幸せになって欲しいって。向こう側の方がきっと、全然マシだよ」
「ウイが行きたい場所があるなら、いくらでも付き合ってあげる。でも、砂川さんを返して」
「そのひとは、自分で望んで行ったんだから」憐憫の目だ、と思った。神狩は白城を見て、言った。
「あなたの大切なひとは、向こう側を望んで旅立ったんだから、私のせいじゃない。むしろ私は、その望みに乗じてここに来られた。きっかけを作ったのは、『砂川和』だよ。……仕方ないなあ」
溶け落ちていく塔の中央で、神狩自身も溶け落ちてただの流れになっていく。
「少しだけ時間をあげる。『砂川和』を、見つけ出してみせて」
流れそのものの中央で、神狩ウイは、聖母のようにやさしく笑っていた。

※コメントは最大140文字、5回まで送信できます