#novelmber 32.復元
※#novelmberは11月にお話を書く企画です。詳細X
「浅野さん」
呼ぶ声が聞こえた。茉優は深呼吸をして、つま先を動かし、床のガラス片を払った。ひっくり返った棚を避けて、白城(しらき)が呼ぶとおり玄関に出る。
「ねえ。変じゃないかな」
白城が振り返って言った。間違い探しのように、視界に違和感があり、そしてすぐに気づいた。
家の前に、木が生えている。白城でも見上げるほどの大きさの木。針葉樹だ。
離レ森町を行き来する間、いつも視界の端に映っていた、針葉樹。
その下に、割れた植木鉢があった。さっき、同じ植木鉢に、枯れ枝が刺さっていた。さっきまで、葉をつけていない、枯れた枝のように見えたもの、が、刺さっていた植木鉢。
「……あのさ。森……」
「『壁の内』」
茉優と白城は顔を見合わせて、口々に呟いた。
――離レ森町には、『森』がある。
町の中央に、円形に囲む形で、青灰色の壁がある。その壁の向こうに、針葉樹が並んでいる。いつも黒々とした印象を与える以外は、ただの針葉樹に見える。でも、誰も手入れをしていないのに、いつ見ても何も変わらず整然と並んでいるのはおかしい。機関はずっとそれを調べたがっている。この町の持つ秘密は、『壁の内』に隠れている。
しかし今、目を巡らせた先に、壁はなかった。
町には、覚えている通りではない風景が、広がっていた。
白城が身を乗り出す。目を見開いて、あたりを見回す。茉優も視線を走らせる。視線を動かして戻すと、そこに、なかったはずの木がある。なかったはずの木が、視界を動かしたその一瞬で生えているのだった。
町は明確に、森に飲み込まれつつあった。
「そもそも、私は、あの森を調べなくてはならなかったの」
茉優は息をついて、言った。
「神狩(かがり)は最後に、『森』で目撃されたと報告されている。だからどうせ、『森』に行かなきゃいけないのはわかってた。でもあそこから帰ってきた人は、誰もいない。記録のある限り、誰も、あそこからは帰ってこない。死ねっていわれているようなもの。……聞いてる?」
返事がなかった。見上げると、白城はひたすら周囲を見回していた。目を開いて、まばたきもせず。もう一度名前を読んでも返事がないので、茉優は白城の背中を叩いた。
「うわ! 何」
「何じゃない。聞こえる?」
「ごめん。記録してた……」
白城は頭を振って、しゃがみ込んだ。顔を覆い、息をつく。「見てる場合じゃないな。どうしたらいいと思う?」
「森に入る」
「ここ、もう森なんじゃないの」
「もっと奥まで。招かれてるみたいだし。……でも、町から脱出することはできるみたいだけど」
茉優は川を指差した。川の向こう側は隣町だ。嘘みたいに平穏に、暮れつつある闇に包まれて、住宅街が広がっている。
白城は茉優の指を見て、川向こうを見て、茉優を見て、川向こうを見て、「え?」と言った。
「え? じゃなくて。脱出できるけど、あなたは」
「え? 脱出しないけど。見るけど全部」
白城は言い募った。「見るけど全部、こんなの。見ないわけないけど。全部見て覚えるけど。全部」
「落ち着いて。もう帰れないんだよ。帰ってきた人はいないの。何を見ようと、たぶんもう、小説には書けないよ」
「浅野さん」白城はしゃがみ込んだまま、茉優を見上げた。目が子供のようにきらきら光っている。「どうでもいいんだよ、小説なんて。知りたいだけだから」
「……そう」
「中のことは何も知らないの? 浅野さんは。というか、機関の方でも、把握してないの」
「中の木はあの状態で変化しない、育たないし荒れないし枯れない、ということくらい」
「じゃあ、誰も知らないんだ」
「そう。だから……」
「あ」話を聞いているのかいないのか、白城はポケットを探った。スマートフォンでどこかにかけているかと思ったら、矢継ぎ早に言う。「あ、もしもし砂川さん? あのさ、今」
白城の言葉は、空中分解して途切れた。感情の乗らない、呼吸のような音が、次いで、漏れる。
「姉さん?」
辿り着いたときにはもう、彼女は、その日本家屋を貫くように生えた木と、一体化していた。彼女の足もとに落ちたスマートフォンを、白城は拾い上げた。さっきは電話を取ることができて、そしてもう、手は硬い枝と化していた。
それが白城桜里(しらき おうり)で、白城の生き別れの姉だと、桜里自身が説明した。たしかに印象としては白城に似ていたが、細い声も、白城よりきめ細かい肌も、白城とは違っている、と茉優は思った。
弟である白城のことを「蓮里(れんり)」と呼び、茉優は白城の本名を知ることになった。
「どうしてここに?」
「砂川さんに会ったから」
「砂川さんと知り合いだったの? 砂川さんは隠してたの? 姉さんのことを」
「違うの」桜里は困ったように笑った。「……私、砂川さんに、恋をしていていて、片想いで、会えて嬉しくて。砂川さんは、私のことを覚えていなくて、ただ、蓮里に似てるって。それで……」
桜里はたどたどしく話し、言葉を途切れさせた。
「うまく説明できなくてごめんね」
白城は首を振った。
「感情がどんどん減っていくの」
「……感情?」
「私の感情が、どんどん、流れの中に入っていく。これが流れなんだね。記憶屋さんも言ってた。この町には流れがあるって」
「記憶屋に会ったの?」
「うん。私、記憶を売ったの、……すきなひとのこと、……砂川さんを好きになったこと、忘れたくて。忘れたら楽になれると思って。そして実際楽になって、いまはもう随分楽、流れに、感情を、渡したから。ずいぶん楽だから、このまま消えてもいいと思ってたんだけど」
白城は黙ったまま、手を伸ばし、姉の、木になった肌にそっと触れた。桜里は、「そうだね」と、言葉にならない弟の声を拾うようにして言った。
「そう。そうだね。いなくなってたら、蓮里と話せなかったし、このままじゃ、蓮里と手を繋げないね」
「……もう、手なんて繋がないかも、しれないでしょ。もう大人だからさ」
「もう、私と手を繋いでくれない?」
「よくわからない……」白城は困ったように頭に手をやり、うつむいて、自分の髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。白城にとって見ることは意味があるから、目を合わせないことにも重要な意味があるのだろうと茉優は思った。
しかし白城は息を吐き、顔を上げた。姉の頬に手を触れさせた。額をこつんと額に当てて、目を至近距離で、あわせた。
「砂川さんを、姉さんにはあげられなくてごめん。でも、姉さんを砂川さんにも、あげられない。感情を取り戻しても。もし、砂川さんのことを好きだって、姉さんが思い出しても。それで、姉さんは、きっと、全部思い出すよ。ごめんね。俺は思い出して欲しいと思ってる。取り戻したいと思ってる、全部。俺は」
「うん。ありがとう。蓮里」
「俺は、姉さんに、自分の輪郭を、記憶していてほしいと、思ってる」
白城の声が震えるところを、はじめて聞いた。

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