#novelmber 11.遊色
※#novelmberは11月にお話を書く企画です。詳細X
砂川和(すなかわ なごみ)は、靴を脱ぐことも忘れて、家に踏み込んだ。ほとんど何も考えていなかった。目が動き、指が揺れる。この家に『魔女』がいた。白城(しらき)が連れて来た。白城がこの家に誰かを連れてくることなんて一度もなかった。大丈夫なんだと、どこかで思い込んでいた。
――なごみさんだいじょうぶですか
後ろで、怪訝そうな女の声がする。世界のすべてと同じように、その声もうるさい、と、今となっては思った。和の世界にはもう、白城先生しかいなくなってしまったのだ。白城先生からの連絡をこの家で待ち、白城先生の帰りをこの家で待っていた。ずっと待っていた。
本当は穏やかな人間でも何でもない。本当は殴りたいときに人だって殴れる。実際に殴って人生をめちゃくちゃにしたことだってある。でも必要なかった、そんなのは、全部。これまでの砂川和はこの世に必要なかった、すべて禊がれたと、白城と会った時思った。白城といればどこにだって行けると思った。でも。
視界が動き眼球が回る度、自分の内側も照らしているようだった。昔のことを思い出す。乱闘騒ぎを起こして退場になったこととか。祖母に、あんたに教えたのは間違いだったと言われたこととか。覚えていなくてもいいはずの過去が、自分の内側、裏側にあって邪魔だった。白城の他に何も要らないのに、自分があって邪魔だった。
自分すらも、邪魔だった。
目の前の虚空に指を突っ込む。潜流に、手を差し込んで、魔女の気配を探る。方法が正解かはわからない、あまり教わらなかったから。祖母は、和を勝手に選んで勝手に教えておいて、勝手に切り上げた。でも和が悪かったのだ、試合中に人を殴ったりしたから。間違えた。和の人生は間違えていた。かつて。どんなにうまく行きようとしても、それから、外れたままだった。なれるといわれたものになれなかった人間は、そうなるしかないのだ。
でも白城のことはすべて、間違いなんかじゃない。
だから言語を保たなくては。二人だけの言語のある二人だけの世界を保たなくては。
――なごみさん
「桜里さん」
砂川の舌は動き、勝手に喋った。
「逃げてください。僕は今暴力に取り付かれていて、どうすることもできないんです」
話す必要なんてないのに、他の言語なんて要らないのに。手も勝手に動き、机の上に置きっぱなしになっていた茶碗を床に放り出した。茶碗は鋭い音を立てて割れた。精神にぱっくり裂け目が入った気がした。裂けたところから、潜流が流れ出してくる。
「嫉妬をしているんだと思うんです。蓮里さんを連れて逃げてください」
女が、和に向かって手を伸ばしてくる。振り払おうとした指先が、どろりと溶けた。女の目にもそれは見えたらしく、ひ、と悲鳴を上げて指を引いた。それでいい、と和は、すべての自我で思った。
一人目の和は、この家に和の「白城先生」以外は入るべきではない、と思った。
二人目の和は、もう二度と人を殴りたくなんてない、と思っていた。
その他にも割れてしまったいくらかの和がいて、こんなことに巻き込まれてしまって可哀想に、と思っていた。桜里にも、白城に対しても、思っていた。白城は、和と関わりさえしなければ、自分で借りた自分の部屋で、自分ひとりの落ち着いた生活を送って、放浪なんかせずに、ゆっくりものを書いて暮らしていけたはずだと、自分が白城を壊したのだと、ずっとそう、どこかで、日々切り落とす髭の一本一本で、そう、理解していた。
だって白城美里は、たった十五の子供だったのに。
潜流を読んで魔女の気配を探していた、和の指が、溶けて混じっていく。和の目には見えている、踊り狂う光の中に。何もかもすべての声が聞こえる、オパール色の混濁のなかに、和の体が交わっていく。飲み込まれていく。恐怖は何故かなかった。むしろほっとしていた。自分すら邪魔だと、ずっと思っていた。
それに、人間の意識や記憶が混ざり合った坩堝なんて、天地誕生と同じじゃないか。
そこには、世界があり、社会がある。そして白城先生の過去も思い出も、きっと待っている。
あれきり帰れないと思っていた社会の、一員に戻してもらえて、一生安らいでいられるんなら。
それでもう、白城先生を害することが、二度とないのなら。
和の全身が遊色に混ざって消えて行く寸前、祖母の声が聞こえた気がした。
「私が、あんたを、正式に、占い師として認めるまでは、決して、ひとりで潜流を読んではいけないと、教えたはずなのに、馬鹿な子だね」
和の目の前には、祖母がいる。手を伸ばして、空間を撫でると、オパール色に歪んで、面白いと思う。自分もやりたいとせがんだら、もっと大人になったらね、と言われた。
これは記憶、と和は思う。和自身の記憶。
サッカーコートが見える。あの激しい感情も、案外柔らかい人間の体についても、ずっと忘れられなかった。靴は高かったのにな。祖母をがっかりさせて、オパール色を触れる資格はないと言われた。あれっきりで、葬式にも出なかった。もう二度と会えない。
記憶が踊る遊色の中で、手を伸ばして掴んだものは、熱を帯びていた。
本当にこれが白城が潜流に放ったものなのかはわからなかった。白城にしては熱すぎるという気もした。白城は和といて笑ったこともない。ただ見ている。
そもそも手なんてものももうなかった。もう全部なくなってしまったのだ。和のすべては潜流にとけて、いずれ離レ森のどこかに放たれていくのだろう。祖母も言っていた。離レ森では、閉じ込めるのは罪。感情も思い出も、離レ森では、そっと潜流に放つもの。皆の感情が、皆の共有物になって、離レ森を守っている。静かに、外の世界から隔絶している。
潜流を読み取るのは離レ森の占い師の役目。潜流に指をいれて撫でて、言葉として取り出す。心の奥に隠れていたものを読み解く。
幼い頃に祖母から教わった。でも、半端なところまでしか教わっていないから、ずっと、占い師にもなれていなかった。
いま胸に捕まえたこの熱いものが、白城美里のかけらなのかどうか、判別することもできない。わからないまま、寒いからもういい、と思った。離レ森は寒い町だ。潜流に、記憶とともに熱も、少しずつ渡しているのだと思う。ずっと、寒かった。
寒いから、寄り添う相手を、皆求めている。

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