7.絶望の話

7 胡蝶さんはかすかにパンのかおりがする朝、フローリングの部屋で考えていたことが結局実現しなかった話をしてください。

さみしいなにかをかくための題」より

 窓を押し開けると、パンの香りがした。モーニングをやるようなホテルではないから、近くにパン屋があるのだろうと思う。改めて振り返ると、フローリングの上に敷かれた絨毯がめくれていた。急いで出て行ったのかもしれないなと思う。
 目が覚めた部屋で、胡蝶はひとりだった。
 旅の最中、部下にあたる相手と、ホテルの一緒の部屋で夜を過ごして、もちろん寝床は別だったのだけれど、起きたら相手はいなくなっていた。もう帰ってこないかもしれないな、と一瞬思ったが、荷物は置きっぱなしだったのでそんなことは全然なく、ただ、帰ってこなければいいのに、と、胡蝶が思ったという、ただそれだけだった。
 会いたくないってわけでもなく、ただ、気まずいだけだ。
 相月ひよりは、部下、と呼んでいい間柄の女性で、年上の、美しいひとで、祖母の――胡蝶の父は、相月を、祖母の愛人、と呼んでいた。それはなかば冗談だったと思うのだが、良い冗談ではなかったと思う。胡蝶は父と折り合いが悪いから、余計にそう思ったのかもしれない。
 わたし、あなたを、手に入れたい。
 でもそれは良い願いではないような気がしたから、いっそもう絶対に手に入らなければいいのに、と胡蝶は思った。のそのそと起き出して、シャワーを浴びた。冷たいシャワーを浴び直していると、部屋の扉が開く音がした。長い髪を乾かすための長い時間は口実になり、全て整えて、化粧も済ませて、息をついてから胡蝶は、浴室を出た。
「おはよう」相月は、胡蝶が開いたままだった窓のそば、光を受けてこちらを見ていた。夏の朝の、既に熱の篭もった空気が、冷房の効いた部屋に混ざり込んできている。
「……おはようございます」
「入ってもいい?」
「なんですか?」
「お風呂」
「ああ。どうぞ。すみません、お待たせしました」
 どこに行っていたんですか、と聞く必要は、たぶんなく、すれ違った相月からは、酒と香水の匂いがして、あまりにもわかりやすかったので、酒と香水の匂いをつけて帰って来るために出かけたのだろうかとすら思った。牽制。牽制?
 手が伸びて、急に、すれ違う腕を掴んだ。体が動きそうになって、意思がそれを押しとどめた。しかし相月は笑い、その笑いはあまりにも適切だったのでいっそ絶望、と胡蝶は思った。必要なものを必要に、与える力があるから与えられた、ものだった、それは。
「どうして?」
 だから本当は聞く必要はなかったのだ。
「嫌だった?」
「……いいえ」
 キスをした。

送信中です

×

※コメントは最大140文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!