4.階段を登る話

4 ひよりさんは古傷の痛む日、眼科のあるビルで微かな頭痛がぬぐえない話をしてください。

さみしいなにかをかくための題」より

「まだ耳?」
「耳は嫌いですか?」
「耳がどうとかじゃないんだよ。ルールがあると思ってたからさあ」
「ルール」
 胡蝶はひよりの言葉を軽やかに復唱した。明らかに面白がっている。
 ひよりと胡蝶は、いくつかのテナントが入ったビルの、階段を上がっている。一階にはコンビニエンスストア、二階には眼科。眼科の横を抜けて、更に階段を上がる。狭く暗い、灰色の空間に、胡蝶のついている杖の先の金属が、かつん、かつん、と硬質な音を響かせている。
 豊かな黒髪を翻して、胡蝶は楽しげに言った。
「祖母の遺したルールのことですね。わたしたちは、美しいものを集める博物館を維持しなくてはならない。だから、レギュレーションは、美しいこと」
「そう。耳の標本って本当に美しいかな? 少なくとも、こんなに耳に拘泥する必要ないんじゃないの?」
「定義は、与えられていませんから。美しさの定義のことですけど」
「言いたいことは……分かると思うけど」
 ひよりは肩をすくめた。どうもこの子と話していると、ふざける手番が取れないな。というか、胡蝶は別に立派に成人していて、「子」とかいう歳でもないのだが、子供の頃に知っていた相手というのは子供に思える。
「ならこれからはわたしが決めていいわけです」
「それで耳?」
「ひとまずは、耳で追求してみようかと」
「最良の耳を?」
 数日前に辿り着いた和室には、耳の標本が集められていた。しかしその中に、胡蝶の納得がいく標本がなく、和室のつてから次の標本を探しに辿り着いたのがこのビルである。
 胡蝶は楽しそうに笑った。
 別に似ていないのに、時々、「夢子さん」のことを思い出す。勝ち誇ったように笑う瞬間の胡蝶は、「夢子さん」に少し似ていて、似ていると思ってしまうことに少し、頭が痛む。多分、罪悪感に近い痛みだった。
 笑ったまま答えずに、胡蝶は再び階段を登り始める。美しい背骨が、シャツの向こうで真っ直ぐに、胡蝶の大きな体を支えていると分かる。

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