3 胡蝶さんは低気圧が接近している水曜日、図書館の貸し出しカウンターの前で指の腹で触れたものについての話をしてください。
「さみしいなにかをかくための題」より
もちろん、この世は、美しいものばかりで構成されているわけではない。
胡蝶は、相月ひよりという女性を連れに、手に入れるべきものを手に入れる旅をしている。胡蝶はこの旅が始まってからずっと、自分の、長い黒髪を鬱陶しく思っている。どこかで美容院に飛び込んで、いっそさっぱりと切り落としてもいいのかもしれないと思う。しかしその思考はずっと繰り返されて、何故か成立まで至らないままなのだった。
胡蝶は背の高い女で、重たく長い黒髪と、同じく重たい大きさの胸囲を持っていて、祖母に仕込まれたとおり真っ直ぐに立つのでなおさら体積が大きく見える。子供の頃からそうだから、これはこれで王侯貴族のような外見だから、胡蝶の身体的な不自由や、精神の狭量を、ことさらにとがめる人間は、少なくとも学校には、少なくとも表立っては、いなかった。
胡蝶は子供の頃、髪を短く切っていた。今より体が不自由で、介護の都合があったので。髪が短かった頃、学校生活が好きではなかった。体が不自由だったことはもちろん胡蝶の精神に影響を与えたと思うが、生まれ持って狭量な性格だったとも思える。くだらない、些細な理由で人を嫌いになり続けていた。祖母の博物館のように、美しいものが調和して配置された場所ばかりにいてはいけないことが、受け入れがたかったのだと思う。
小学校についてことさらに思い出すのは、図書室の貸し出しカウンターに手を置いたとき、触れたあのぐずぐずの感覚だ。小学校のものなんて借りたくなかったのに、課題でどうしても借りるように言われてどうにか選び出した本を抱えていた。名前も知らない作家の、古い全集のうち一冊。誰かが触ったとは思えなかったから、それにした。
カウンターには、噛んだガムが貼り付けられていた。指に触れたそれに対して、胡蝶は悲鳴をあげて杖を取り落とし、転んだ。生徒たちはくすくすと笑い、胡蝶は怒りで全身が熱くなった。
あの恐怖、あの屈辱、あの苦痛と比べたら、何だってどういうこともない。長い髪を手入れして背中に足らしているのは、もう子供ではないことを示すためでもあった。多分。
「相月さんは」
買い物を終えて、ようやく車に戻ってきた。蒸発してしまいそうなほど熱い車内に急いで冷気を回しながら、途中のコンビニエンスストアで買ったコーヒーで一息つく。相月は甘そうな炭酸飲料のペットボトルをあけて、同じように息をついていた。
「何?」
「相月さんはどんな子供でしたか?」
「すごくモテた」
「今でもおモテになるでしょう」
「わはは! それはそうです」
「今との差分はありますか」
「そうだねえ。これから先は下ネタになるので……」
「ご遠慮ください」
相月は再び、作ったような明るさで、わはは、と言った。
胡蝶の体はずいぶん動くようになったし、人とずいぶん会話も出来るようになった。と思う。多分。
吐き出したガムは何故貼り付けられたのだろう。あれは本当に、胡蝶に向けられた悪意だったのだろうか。今更考えても、意味はないのかもしれないが。

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