2 ひよりさんは頭が煮えるほどあつい火曜日、深く暗い坑道の奥で眠ってしまったきみのタオルケットをはいだときの話をしてください。
「さみしいなにかをかくための題」より
胡蝶は覚えていないようだったが、ひよりが胡蝶について知っていることがいくらかある。ひよりが「夢子さん」のもとで働くようになったのは、十五の頃だった。記憶が確かなら、当時、胡蝶は八歳かそこらだったはずで、覚えていないのは不思議ではない。
火曜日だったのを覚えている。夏期講習に行くのが嫌で、家出をしようと思った。五百円玉貯金の中身をじゃらじゃらとポーチに流しこんだらずしりと重くなった。肩から提げるペットボトルホルダーにポカリスエットを差し込んで、知らない駅から知らない駅を乗り継いで、あてどなく歩いていた。
嫌だったのは、夏の盛りに勉強をすることではなく、学校全体、もっと言えば人間全体、だったように思う。今より潔癖だったし、寄せられる好意の熱量を利用する方法も知らなかった。坂道を転がるように「方法がわかった」のは、「夢子さん」の影響も、小さくなかったと思う。
「あなた。ちょっと手伝っては貰えないかしら」
陽炎のように、夏の道に立っていた、彼女のことを、よく覚えている。あれが、ひよりの人生の、本当の始まりだった。
「夢子さん」は、坂の上にある屋敷の主人だった。彼女は「杖を探して欲しい」と言った。
「おおかた、孫が持ち出してしまったのでしょう。孫はこの坑道のどこかにいるので、ひとつひとつ確認してください」
欲しかったのは、淡々と伝えられた高額の報酬ではなく、冒険じみた指示それ自体だった。
「夢子さん」と過ごすのは、それからあともずっと、ずっと、「冒険」だったと、今になって思う。
汗を拭いながら、湿度は高いものの冷えた空気が満ちた高い坑道をいくつも巡り、印をつけて進んだ。迷子にならないようにつける赤いチョークの印は、冒険映画のようだった。そしてその坑道のひとつ、奥まった場所で、ひよりは胡蝶に、はじめて会った。
杖を抱えてタオルケットにくるまって、ランタンと本を傍らに、少女は眠っていた。長い黒髪が無造作に散っていて綺麗だった。ひよりは息をついて、かがみ込んで、そのタオルケットをゆっくり剥がした。目的の杖、宝石がはめ込まれた、魔法使いが使うような流麗な杖を、取り上げたあとで、少し迷った。
八歳の子供の体って熱くて重たい。しかし揺さぶっても目を覚まさなかったので、ひよりは結局、坑道の外まで胡蝶を抱いて連れ出した。タオルケットを剥いだときに胡蝶の体から浮上した熱、腕の中に抱えたときの熱、冷えた坑道の中で、筋道をつけて赤いチョークの色と共に記憶された。あれが始まりだった。

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