人類は孤独を選択できるほど成熟していない――映画『夜は短し歩けよ乙女』

※原作既読勢へのネタバレには配慮

※原作のネタバレはふつうにある

※ネタバレがそんなにはないようにしようとした結果、歯切れが悪い

※「森見は好きだけど、スゲエ好き全部読むというほどではない」「湯浅監督のオリジナル作品がめちゃくちゃ観たいというほど湯浅監督が好きなわけではない」なんですが、四畳半は原作もアニメもめちゃくちゃ好きで、映画夜もめちゃくちゃ好きでした、という人の感想です

 

おそ松さんのTVシリーズを六時間くらいに再編集してちょっとだけ新規映像をつけて一時間あたり一律1500円で全国の映画館で公開するという気の狂った貴族の遊びに3000円分参加して(3000円分なのはたまたまぎりぎり仕事と体調の折り合いがつく時間がそこしかなかったからです)完全に頭がおかしくなり、そもそもわたしは閉所恐怖症なので映画館に行くと体調がめちゃくちゃ悪くなりグニャグニャになりながらしかし絶対に観たかったので、絶対に観たかったけどもう一回映画館に出直す元気があるかどうかよくわからなかったので、どうにかして椅子にしがみついて観てきました。結果的にはグチャグチャになりながら観るのもそれはそれで映画の内容に合っていたような。なんでわたしのコンディションの話をするかというとつまりそれくらい曖昧模糊とした魑魅魍魎の幻覚のさなかで観たのでなにを観たんだか記憶が曖昧であると言いたいんですが、内容が内容なので、その感想で正しいのでは? とは思う。体調が悪すぎて&終わったら即歩き出すことでかろうじてぎりぎり終電に間に合うという状況だったので観終わってから酒をひっかけに行けなかったのが残念でした。みんなはぜったいに観たあと飲み屋に繰り出すべきだとおもう。そこにお酒がある限り!

さて、『夜は短し歩けよ乙女』、原作は既読ですが今の家に持ってきてなくて、つまり最後に読んだのは二年くらい前です。なので原作との比較に以下触れるとしてもすごく曖昧な記憶だということをお許しいただきたい。アニメの『四畳半神話大系』と同じスタッフのはずで、アニメ四畳半神話大系にも多少触れると思いますがこれは引っ越してきてすぐくらいに作業用BGVを求めていた頃二週くらい観た覚えがある。にしても一年半くらい前なんですよね。あらゆる全てがBO.(おそ松さん以前)の出来事です。

 

長くなりましたがそのような経緯によって、映画夜は短しに登場する学園祭事務局長が一体どれくらいあの通りだったかぜんぜんわからなくなってしまったんですよ。

学園祭事務局長が最高なんですが、(ネタバレ)が(ネタバレ)という点において(ネタバレ)なのでなにをどう書いたらいいのかぜんぜんわからない。とにかく学園祭事務局長がよすぎて脳がバグってしまったんですよ……。学園祭事務局長まわりのあれこれ、原作好きな人はかなり首をかしげる点だろうとは思うんですがわたしは「最高だった」としか言えない。

 

おそ松さん24話の感想の時に書いた、いや書いてないな、当時ブログを自粛していたのでブログに書かずに適当に喚き散らしただけだ多分、とにかく24話と25話のときも散々喚いていたことなんですけど、あとシムーンの感想をダラダラ喋っていた頃にもよく言っていたように思いますが、「成長」や「青春の終わり」や「モラトリアムからの卒業」を題材に物語を描くときに、「主人公はたまたまこれを選んだけど、これを選ばなかった人もいます」そして「そっちもべつに不正解なわけじゃない」を描く作品が好きだし、できれば描くべきだと思うし、描くことが誠実だと思っています。無職の人も、就職した人も、結婚した人も、恋愛しない人も、成就した恋も、成就しなかった恋も、等価に「べつにどの人生が不正解ってわけじゃない」という話が誠実だと思う。べつに面白い物語がぜったいに誠実でなくてはならないというわけではないんですが、でもわたしは誠実な物語が好きです。

そういう意味で、映画夜は短しにおける「先輩」(主人公)は「恋の成就」、いや、というか、「恋の成就の可能性」か、そこに至らざるを得ないわけだけど、これは「至りたいから至る」わけじゃなくて「至らざるを得ない」という書き方をあえてしていますけど、「先輩」が至った場所が「絶対の正解」なわけではない。

「先輩」はその選択肢に至らざるを得なくなって(というか、自分でそこに自分を追い込んだあとで後悔しても遅くて)至るし、パンツ総番長は「選択をしたい」という欲望が爆発した結果として目的より手段が優先された結果ひとつの人生が成就するし、「恋した相手と結ばれない方が理性的である」と解く彼の成就しない物語もあれはあれでひとつの人生の成就である。

 

そして学園祭事務局長は、あるいは李白さんは、「自分の人生の傍らには誰もいない」を貫くことがひとつの人生の成就である。学園祭事務局長も李白さんも、「先輩」も、まあ東堂さんもですけど、「自分の人生が孤独である」ということにある程度酔っていて、それは「孤独である以上つらいと言っても構わないのだ」あるいは「孤独であるくらいなら酷いことをしても構わないのだ」という甘えの話になる、というか、映画版はそういう態度を、それは甘えですよね、と追求していく側面がけっこう強くあったと思う。

それらを踏まえたうえで乙女が説く「我々はそう簡単に孤独になることはできない」は、だから、けっこうシニカルな話で、これは原作を読んだ時はそういう印象は持たなかったんですが、だから映画に特有の部分ではないかなと思うんですが、「そう簡単に孤独になることはできない」「孤独に溺れて死ぬのだと思っているとしても、結局誰かを、それもかなり多くの誰かを巻き込んでいくしかない」というのは相当厳しい話だし、「甘えるな」ということになっていくと思うんですよ。乙女はべつに「甘えるな」と言いたいわけではない(というか乙女の発言には隠された意味とかない)と思うけど。

「我々はそう簡単に孤独になることはできない」というのは単なる「事実」であって、それに対して「それでは、孤独ではないと確認し続けることを一緒にやってもらえると考えてもよろしいか」という提議を「できた」のが「先輩」の物語で、「どれだけ愛されたとしても別に誰かに選ばれるわけではないけど、でも自分は孤独ではないと知ってはいるよ」というのが学園祭事務局長の人生で、そこははっきり意図的に描いていたという印象でした。「結ばれない恋」とか「選ばれない人生」を生きるキャラクターというのが明確に「それが間違っているわけではないし、負けたわけでもない」ものとして描かれていたと思うし、それは誠実なことだったと思う、と同時に、原作と明確に違う部分ではあって、そこに目を向けるにしろ向けないにしろどっちにしろ別の残酷さが付きまとうとは思うんですが……どっちがいいとか悪いとかではなくて、どっちにしろ残酷なのは確かなんだけど。

「人生の傍らに誰かがいるわけではないが、それでも生きていくことはできる」という側面を、映画版ははっきり出していたと思うし、恋愛映画がそれをきちんと描くというのは重要なことで、李白さんをひとりの人間として描くために学園祭事務局長をあのように描いたことは意義があったと思いました。「孤独に生きることにある程度酔っていてある程度苦しんでいる高貴で美しくある種の邪悪さと残酷さを持つ青年」として学園祭事務局長を描いたことの意義は、李白さんを物語を推進する装置ではなくひとりの弱い人間にする効力があった。

ただひとりひとりがひとりの人間として弱さをきちんとクローズアップされていくというのは(パンツ総番長が原作よりだいぶんどうかしてるという点もですけど)原作の愛らしさをシャープに、より残酷な方向に舵を取った、という印象はあって、そういう意味で原作通りではぜんぜんないと思う。まあ夜は短しの映像化に原作通りを期待する人がどれくらいいるのかはわからないですが……。

 

『四畳半神話大系』は「恋が成就しなかった世界線」はあって(アニメ版だと大量にあって)、それでも、これはとくにアニメ観て強く感じたことなんですが(原作はそうでもなかったかもしれない)「どのバージョンの自分の人生にも永遠に終わらないモラトリアムがあったという事実」は間違いなくあって、「私の人生には小津がいる」ということで描かれている。「いろいろな可能性、いろいろな選択肢」はあって、「それを選ばなかったら変わったかもしれない人生」、という話なんだけど「小津というモラトリアムの化身」が存在すること自体は変わらなくて、それが「私」の人生のぜったいになくならない一部分である、という話だった――メインテーマではないにしろそういうサブテーマがころっと転がっていた話だったと思ってるんですが、つまりアニメ四畳半は永遠に終わらないモラトリアムの話だったと思うんですが、映画夜は短しにおける「先輩」のモラトリアムは確実に乙女との関係によって終わろうとしていて、そして多分学園祭事務局長は「永遠にモラトリアムが終わらない」ほうの人種じゃないかと思う。

四畳半の樋口さんのモラトリアムは一応終わるけど、夜は短しの樋口さんはモラトリアムの化身であるとか、そういうことも含めて、「終わるからいい」「終わらせないといけない」じゃない、ということも、明確に描かれていたと思います。「先輩」の長い脳内会議と広すぎるインナーワールド、超よかったです……。

 

最後に、これはまあ当たり前なんですがアニメーションとしてハイパーキュートで、あと詭弁踊りが最高だった。