世界にはゆっくりと、カミサマが増えていった。歩く人々のだれもがカミサマを腕に抱え、頭にのせ、足元にまとわりつかせ、あるいはカミサマにからだの半分をうずめて、ゆきすぎていく。もしくは、とてもきれいな少女が、美しいドレスを着て虹色の光を放っている。
誰かに手渡されたカミサマがなにかを飲み込む、なんでもいいのだ、醜いもの、無駄なもの、いやなもの。そしてそのいやなものは卵として吐き出され、カミサマになる。カミサマばかりが増えていく。
カミサマは人づてに増えていった。そしていつしか、道行くすべてのひとたちが、カミサマとともに歩くようになった。
そうするとアザミとキタコちゃんは退屈になった。アザミとキタコちゃんは街を眺めながら、お茶を飲んだり、お菓子を食べたりして、それにあきると散歩に出かけて醜いものをみつけては、カミサマに食べさせた。
お茶を飲みながら、キタコちゃんがアザミに話をはじめたのは、そのころだった。
キタコちゃんは、もう無理、と思ったのだった。
キタコちゃんは、部長とホテルにいて、そうしてキタコちゃんはルームサービスのお皿を、がしゃんと鏡にたたきつけて割った。それで、ナイフができた。キタコちゃんはそのときも、笑っていた。キタコちゃんは、「わたし、もう、無理なんです」と、部長に教えてあげた。部長は、びっくりした顔をした。このひとのびっくりする顔、わたしはずいぶん好きだわ、とキタコちゃんは思った。キタコちゃんはいろんなものが好きだった。キタコちゃんの目に映るどんなものにも、すてきな部分を見つけることができた。
そうしてキタコちゃんは、その部長のすてきなびっくりした顔を、食べてしまいたい、と思った。
キタコちゃんは、キタコちゃんが作ったナイフで、部長を刺してしまうべきだったのかもしれない。でもキタコちゃんは、そうしなかった。かわりにキタコちゃんは、自分の胸を刺した。部長がびっくりした顔でキタコちゃんを見ている、その前で。
そうしたら、ナイフを突き刺したキタコちゃんの胸から、カミサマが現れた。
ぽかりと現れたカミサマ、まだカミサマとキタコちゃんが名付けるまえのカミサマは、キタコちゃんの目の前で、ごくんと部長を、食べてしまった。
そうして、カミサマは振り返って、『だいすき』と言って、
キタコちゃんのことも、食べてしまった。
つるんとキタコちゃんはカミサマのなかに入った。そうするとキタコちゃんの傷は、つるんと直ってしまった。キタコちゃんが最近ずっと気になっていた、目尻のしわも、垂れてきたおっぱいも、足の色素沈着も、ぜんぶ直ってしまった。キタコちゃんは、キタコちゃんがいちばんきれいだったころの、キタコちゃんになった。なりたい自分に、なった。
そうしてキタコちゃんの目の前で、部長はつるんと、卵になった。
キタコちゃんはホテルの部屋でひとりで、カミサマを抱えて、座り込んでいた。
「わたしの神様」
キタコちゃんは両手でしっかりとカミサマを抱きしめて、そう囁いた。
アザミの両腕には、鳥肌が立っていた。
とても、こわかった。
「寒いの?」
キタコちゃんは首をかしげて、そう尋ねた。やわらかい、やさしい、キタコちゃんのほほえみ。そうだ、とそのときはじめて、アザミは気づく。いま、アザミの目の前にいるキタコちゃんは、まるで出会った頃のキタコちゃんみたいだ。病院の子供と遊ぶ、ボランティアのお姉さんだったキタコちゃん。はじめて会ったとき、キタコちゃんは、十五歳だった。
いま、アザミの目の前にいるキタコちゃんは、まるで十五歳の、ううん、それどころか、十四歳、十三歳、まだあどけなさの残る、もはやアザミよりも小さい、成長過程の女の子だ。
魔法。
神様がやってきて、魔法を与えた。
そうしてキタコちゃんは、魔法少女に。
アザミの喉が、からからに乾いている。アザミはごくんと唾を飲み込み、キタコちゃんに、問いかける。
「キタコちゃんは、その、不倫相手が」
「いやな言い方しないで、奥さんがいるだけよ」
「……ごめんね、その、奥さんがいる、部長さんが、好きだったの」
「わたしは、誰のことだって、好きよ」
キタコちゃんは、笑っている。
キタコちゃんは、いつだって、やさしく、笑っているのだ。
「最初は中学の先生だった。それから病院の先生。それから大学の先生。それから部長。みんな、みんな、いっしょうけんめい探せば、絶対にどこかひとつ、すてきなところがあった。わたしはちゃんと、みんな、好きだったわ。だってみんな、わたしのことを愛してくれたんだもの。わたしは特別で、すてきな、かわいい女の子だから、わたしと遊びたいって、言ってくれた。だから、みんな、幸せにならなくちゃいけなかった」
キタコちゃんは、膝の上にのせた、カミサマの頭に手を乗せて、そっと、その頭を撫でた。みおろして、ささやく。
「ねえ、神様、あなたはとても、幸せですね、そうですよね」
『そうよぉ』カミサマはキタコを見上げてそう言う。『カミサマでいるのは、とぉっても、楽しくって、いいことばっかりで、とぉっても、しあわせ、なのっ、だからみんな』
「そうよ」
『カミサマに』
「そう、みんな、神様になって、幸せになるべきなんだわ、みんな、いいひとなんだもの、みんな、幸せになるべきなのよ」
キタコちゃんの笑顔はやさしく、くもりがなく、キタコちゃんは、それを、信じきっているようにみえた。でもキタコちゃんは、さっきたしかに、もう無理だと思った、と言ったのだ。それはどういう意味だったのだろう。けれどそれを尋ねるかわりに、アザミはこう聞く。
「キタコちゃん、あたしのこと、好き?」
キタコちゃんはなんの刺も乱れもない声で、答えた。
「アザミちゃんのこと、大好きよ」
「キタコちゃん、あたしね」
アザミの声は震えた。ずっと昔、そう、もうそれはもうずっと昔のことなのだ、ずっと昔アザミが病室にいたころ、キタコちゃんに向かって言葉を発する時、アザミの声はいつも、震えた。
「あたしね、ずっと、キタコちゃんに、あこがれてたの」
百年も、千年も、万年もの時が過ぎていく。キタコちゃんはずっと美しい十三歳で、アザミはいつまでもキタコちゃんのそばにいた。アザミはアザミのままで、なりたい自分になんかならないで、きれいになんかならなくて、ずっと、アザミのままだった。
子供の頃アザミは、病院にやってくる美容師に、いつも短く髪を切られていた。髪を伸ばしてもいいなんて、考えたこともなかった。いまでもアザミは短い髪をしている。アザミがアザミでいるとき、髪がふわふわと広がることはない。
百年も、千年も、万年もの時が過ぎていく。世界中はカミサマで満ち、やがて人間は、世界から消えていった。人間は次々とカミサマに飲み込まれ、卵となって生まれ変わった。そうして世界中には、紫色の兎ばかりが、飛び跳ねるようになった。兎の群れが空をとぶなかを、キタコちゃんが、幸福そうに飛んでゆく。紫の洪水のなかで、キタコちゃんの白いドレスは、月光のように流れていく。
人間はだれもいない道で、アザミは、紫色にびっしりと埋まった空を見上げている。
アザミは、自分の体をみおろす。アザミはタンクトップにショートパンツを履いている。手首に花のついたブレスレットだけつけて、アザミはほんとうに身軽な姿で、そこに立っている。
ひらり、と、キタコちゃんがアザミのまえに降りてくる。キタコちゃんはにっこりと笑う。とても、幸福そうに。
「アザミちゃん、きれいになったわね」
「……なあに、いきなり」
「アザミちゃんは、ほんとうにきれいになったわ。アザミちゃんは、すらっとしてて、足が長くて、そういう格好よく似合う、とっても、すてきだわ」
「……キタコちゃんはいじわるね」
「どうして?」
不思議そうにキタコちゃんは首をかしげる。アザミは笑う。
百年、千年、万年ものあいだ、アザミはキタコちゃんのそばにいて、そうしてゆっくりと、アザミはキタコちゃんに変身するのをやめていった。キタコちゃんは、世界中のなにもかもに、すてきな部分はあると言った。だから幸福にならなくてはいけないと。
アザミは違う。アザミは、世界中のなにもかもが、つまらなくて、嫌いだった。
「いじわるじゃないなら、キタコちゃん、つまんないこと言うんだね」
「……そうよ、わたし、つまんない女の子なの」
「嘘」
「ほんとうよ。みんなそう言ったわ。だからわたし、特別な女の子に、なりたかったの」
「そうして、そう、なったんだ」
キタコちゃんは笑って、答えない。
「アザミちゃんが、きれいで、うれしい」
キタコちゃんは、手にした白いステッキを、持ち上げる。
振った。
虹色の光がきらきらと、キタコちゃんを包んだ。
そうしてキタコちゃんは消えてしまった。そこにいるのは、もう、キタコちゃんではなかった。そこにいるのは、白い兎だった。真っ白い兎、ほとんど向こう側が透けて見えそうなほど白い兎が、ぷるぷると耳を揺らし、ひび割れたアスファルトの地面から、ゆっくりと浮かび上がる。そうして白い兎はアザミをじっと見つめ、ステッキを差し出した。
「いらない」
アザミは答える。
兎は、きゃははははっ、と笑った。
兎の差し出したステッキが、花束に変わる。あざみの、花束だ。濃い赤色の、とげとげした花だ。それはアザミにむかって放られ、そうして花は、どんどん、どんどん、きりもなく、降り注いだ。アザミは笑う。
「やめてよ、いじわるね」
花に囲まれたアザミをみおろし、白い兎はもう一度、きゃははははっ、と笑った。ほとんど轟音のように、きゃはははははっ、と、唱和する声があった。白い兎は空へと飛んでゆく。兎たちが、空を飛んでゆく。キタコちゃんが、カミサマと呼んだ彼らが、空を一面に埋めて、飛んでゆく。
アザミは紫色の空をじっと見つめ、紫色が消えていくまで、彼らを見送る。やがて空は青くなる。青い空に夕焼けがやってくる。そうして黒くなっていく。闇夜がやってきたあとに、儚い白い光をおとす、月が、アザミの目のまえにある。アザミはまっすぐに、それを見上げている。
アザミは、かすかな声で、囁く。
「……さようなら、キタコちゃん」
アザミは手のブレスレットをさらりと揺らす。誰もいないからっぽの街が消える。そこは花園になる。アザミは、花園に立っている。
その花園には一面に、アザミの花が咲いている。

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