零さんは夜通しDVDを見た翌日の朝、貝塚の案内のある海沿いの道で怪我をした時のことについての話をしてください。
八歳の春、零の人生からは兄が失われ、十八歳の春、街ごと失われた。町がなくなるのをきっかけに両親は知らない町へと越していき、零は零で、大学近くのアパートに引っ越した。貝塚が有名な、海辺の街だ。かつて神のように思っていた兄のことは、もう、「かつて神のように思っていた」という事実以外はほとんど忘れかけていた。いなくなってしまってから十二年が経っていたし、どこでどうしているのか親に訊こうとも、あまり、思えないままだった。結局――とどこかで思っていたと思う。棄てられたのだし、と。
兄が零ごと棄てていった町のことも、もうほとんど、忘れかけていた。
十八歳の春がおわり、十九歳の春がおわり、二十歳の春が来た。零は、順調に大学生活をこなしていた。
いくつかアルバイトを掛け持ちしていて、そのうちのひとつが、家の近くにあるレンタルビデオショップだった。大学の生徒がよくやってきて、●●大生だよね、と話しかけられても、昔ほどにはぶっきらぼうに返さなかった。そもそもあの終わりかけの町を出たせいかそれとも潮風が合っていたのか、体調はいつになくよく、腹が痛まないと愛想笑いもできた。
検品していたDVDのひとつに、その映画があった。
視界に入った瞬間、あそこだ、と思った。自分の知っている、よく知っている町。繁る楡の木。古いデパート。零の生まれ育った、あの町を撮った映画だった。
持ち帰って一晩中見ていた。
何を感じているのかよくわからなかった。ただ目が離せなかった。役者の声はひとつも聞こえず、背景に映るすべてに、あそこだ、あそこだ、と思っていた。もうどこにもない町だ。こんなにもあの町を駈け回っていたなんて、すべて覚えていたなんて、思っていなかった。
忘れかけていたと、ほとんど忘れてしまっていたと、思っていたのに。
朝までずっと繰り返して映画を観て、すっかり目が乾いて、眠くもなく、零はサンダルをつっかけて部屋を出た。海辺の風景を素通りして、さっきまで見ていた町がそこに広がっているように思えた。棕櫚の木も白い砂浜も見えず、割れたアスファルトや枯れた木の混ざる山や、落とし穴や――
落とし穴。
海岸に腰を下ろす、少年じみた肩が視界に入って、足を止めた。朝焼けを見ている、よく手入れされた髪。染めた薄茶色が光を透かしている。耳に赤いピアスをつけている。紺色の制服を着ている。
春の海を、見ている。
「朝日」
視界に入った風景の、どれを言葉にしたのか、曖昧だった。のぼる太陽と、振り返る青年と、どちらを呼びたかったのか、わからなかった。どちらもよく似ていた。
振り返った朝日――かつての同級生は、困ったように笑い、笑おうとして、顔を蔽った。
「変だ」
「朝日。だよな?」
「変だ。空元くん。大人みたいだ。……違って、違う、ここ、どこだろう、わかんなくて、俺」
手をのばす。迷って、肩を掴んだ。ほとんど反射的に、零は朝日の、もう十分に成長しているはずなのにどうしてか薄っぺらく思える肩を抱いた。朝日は絶望的なほどの聡さでしゃくり上げた。何が起こったのか、本人だけが既に、完全に、理解しているというようだった。
ここに存在しているのは、十八歳の、二年間の、そのままの、朝日通だ。

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