01.兄のいない部屋

零さんは大理石模様の雲の立ちこめる3月の10時、きみの部屋で思い違いをしていたことの話をしてください。

さみしいなにかをかくための題より

 がらんと広くなった子供部屋を、これからは自分ひとりで使っていいと言われ、零(れい)は強い戸惑いを覚えた。ずっとそこにいた兄、千草(ちぐさ)が、出ていった日のことだ。
 千草が壁にかけたままにしていった鏡には、中身がなくなった本棚が映っていた。こんな大きな本棚、持っていくより新しく買った方が安いと、母親と千草が話し合っていたのも聴いていたのに、零の戸惑いの原因の一番はその本棚だった。大量の本が詰め込まれた本棚を、兄の体の一部分のように思っていたからだ。
 同じように戸惑いを与えてくる、今は誰も座っていない椅子と何も置かれていない机も置き去りにされていて、この机と椅子は零がこれから使うといいと言われた。もともとその予定だった。小学校に上がったとき零には机が用意されず、ずっとちゃぶ台で勉強していた。本当はダイニングテーブルでするようにと言われていたのだが、兄のそばがよかったので、もっと幼い頃に使っていたお絵かき用のちゃぶ台を無理矢理使っていたのだった。
 もともとその予定だったのだから、両親と千草は、十八になったら千草は出ていくと、ずっと取り決めていたのだ。八歳の零のそばに、もう兄はいなくなっていると、わかっていたはずだったのに、ずっとそばにいるはずだと、思い違いをしていた。零が帰って来れば部屋にいて、同じ部屋でずっと過ごせると、そう思い込んでいた。
 背伸びをして鏡を覗きこむ。戸惑った顔の、眼鏡ばかり大きい子供の姿が映った。零はアニメの「のび太くん」によく似ている、と、よく言われるが、髪はのび太くんより少し跳ねがちだし、眼鏡は白いプラスティックの、軽いものをかけている。まあ、細かいことだけど。
 まだ八歳の零にとっては、兄、千草は、神にも等しい存在だった。
 千草は零とは十離れていて、しばらく前までは高校生だった。学校にはあまり顔を出しておらず、家で本ばかり読んでいた。だから、零が学校に行く前も、帰ってからも、千草は大抵そこにいた。働いている両親より、兄のほうが身近だった。
 零は知りたいことがあると、父より母より先に、家族共有のタブレットよりも先に、千草に尋ねた。千草は適切な本や百科事典や辞書を棚から取り出し、零に差し出した。本棚にないことなら、そこでようやくタブレットをとってくるように言って、キーワードを提示して零に検索させた。千草は何でも知っていた。正確には、何でも、調べ方を知っていた。 
 零は、兄に頼まれたことは何でもやった。たとえば、千草伸ばしっぱなしの髪を少し切って欲しいと言ったら切ったし、コンビニや百均でゴムを勝ってきて欲しいと言われたら買って帰った。子供部屋のゴミは兄の分まで零が片づけた。なにより、兄が調べてきて欲しいと言ったことを、図書館まで行って調べて、借りたり、場合によっては複写を頼み持ち帰ったりするのが、零の大事な「仕事」だった。
 零にとっては、兄のいない時間はこれまで、存在しなかった。鏡に、自分ひとりしか映らないのが、不自然に思える。曇天の三月、日曜の十時。兄は出ていって、零は子供部屋にいる。百科事典も、兄が読みかけていた分厚い古書の匂いも、不自然に抜き取られた部屋で、寂しいとすら思わない。
 兄にもう二度と会えないような気がしたが、ただ引っ越しただけで、いつでも連絡がつくと知っていて、でも、もう二度と会えないのだと、何故かそう確信していた。少なくとも、同じ形には、もう、二度と戻らない。

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