#novelmber 8.慕わしい
※#novelmberは11月にお話を書く企画です。詳細X
白城桜里(しらき おうり)が、その家の玄関を出ようとしたとき、女性が背後からふと、こう言った。
「ああ。潜流が……」
「え?」
桜里は振り返った。女性は眉をひそめて、苦々しげにこう言った。
「流れがね。いえね。ああ。どうしようかしら? まあ、試してみましょうか」
「何のことですか」
「まあ、いいか。いいでしょう。あのね、これから何が起こっても、潜流の望みですよ、それは」
「……はあ」
女性は首を振りながら、桜里を見送らず部屋の奥に引っ込んでいった。このまま出ていって良いのだろうか、と迷い、しかし他にどうすることもできないので、桜里は家を出た。
視界に、男が映った。
門扉の向こうをゆっくり歩いていく男について、記憶がまだ留まっていた。桜里は深呼吸をして、足を踏み出した。玄関扉は閉めずに放置され、その向こうから聞こえた声にも、気づかなかった。
「忘れられなくてもわたしのせいじゃない――『両親』が望むなら、抵抗は難しいわね」
桜里は走りもしなかった。ただ普通に歩いて、あとをつけただけだった。というより、あとをつけているという事実にすら気づいていなかった。横断歩道で、足を止めた男に、追いついた。間違いない。名前も暗記している。名刺をもらったから。
「砂川和(すなかわ なごみ)」だ。
しかしその名前で呼びかけるわけでもなく、桜里はこう、声をかけた。
「あの。このあたりに、美味しい和菓子屋さんがあるって聞いたんですが」
砂川は桜里に視線を落とし、いくらかまばたきをしてから、「ああ」と答えた。
「こっちです。実は僕も同じ店を目指していて。ご迷惑でなければ、一緒に行きましょう」
そっけないともとれる静かな口調。桜里の中で何回となく繰り返された声の、新しい情報が全身を巡る。しかしその声を聴いた桜里の感情は不思議と凪いでいた。記憶を買い取ってもらったおかげだ、と、桜里は記憶屋に感謝した。しかし、記憶屋の女性がどこか苦々しげだったのは、これを予測していたからなのだろうか。桜里と砂川が、こんなにも簡単に、再会することは、彼女にとっては予定外かつ、不慮の事故と読んでいいことなのかもしれない。
でも少なくとも、あの激しい感情は、もう、ここにはない。
「ここです。ここですか、お探しの店は」
桜里がこの店について知ったのはほんの少し前なので、ここで合っているのかはわからない。が、素知らぬ顔で、地方都市まで和菓子を買いに来る甘党の笑顔をイメージして、作った。
「はい!」
「どら焼きが有名なんですよ。でも、琥珀糖も美味いですよ」
「あの。地元の方なんですか」
「ああ、まあ、そうかな。そうですね。祖母が住んでいて。この店に、子供の頃、よくお使いに出されました」
「琥珀糖って何ですか? あ、すみません、質問ばかり」
「寒天でできたお菓子です。見た目が可愛らしいので子供の頃から好きで。……あの」
心臓が跳ねたのは、「バレた」と思ったからだった。感情が伴う伴わないに関わらず、桜里の行動はストーキングじみていると気づいていた。強く慕っているかいないかではなく、距離の詰め方が問題だろう。そもそも、砂川に対する激しい感情はなくなったはずなのに、何故、自分は、追いかけたのだ?
本当に忘れたと言えるのか?
桜里の動揺をよそに、砂川は、片手に、琥珀糖の箱をひとつもてあそび、ためらった。色とりどりの琥珀糖の中、サファイアに似た青のかけらがパッケージされている。
「失礼ですが」
「はい」
「……弟さんが、おありではないでしょうか」
「え?」
「いえ。あの、あなたによく似た人を知っていて……」
背が高くて、肌が浅黒くて、巻いた黒髪の、男が、急にそこに現れたような気がした。砂川の目の前にその男が立っていて、桜里がいるのではないのだという気がした。しかし桜里もその男を、急に目の前に見ていて、息を止めていた。
「実在するんですか?」
桜里は矢継ぎ早に尋ねた。
「わたしの弟。実在するんですか。わたしのイマジナリーフレンドなんだと思っていました」
「多分。多分実在すると思いますよ」桜里の動転に対して、砂川はどこまでも静かに、どこかうつろに答えた。
「僕のイマジナリーフレンドでないならね」
母親は、いない、と言っていた。あなたに弟なんていない、最初からいなかった、と。ごく幼い日に、唐突にそう言われて、桜里は一人っ子にさせられた。
母親は言い始めたことを引っ込めない人だったので、桜里は、それ以上確認しなかった。大人になってからは実在の確認はいつでもできたのに、しなかったのは、怖かったからだ。桜里は外見ほどに強い人間ではないと自分を評価していたが、そう思うようになったのは、「架空の弟」がきっかけだったかもしれない。
自分にとって特別だった存在が実は架空で、存在しないのだとある日、唐突に言われて、足もとが崩れ去るような感覚を抱いた。それからずっと、足もとがないまま生きてきて――だから砂川に縋ろうとしたのかもしれなかった。
急に、足もとにある物を指差され、そこにあるから気をつけて、と言われたような気分だった。そこに何もかも転がっているから気をつけて、と、砂川が、桜里の心臓を持っている男が、本人は知らないまま桜里の心臓を押しつけられた男が、教えてくれた。
「どら焼きと」
はっと我に返る。桜里は公園のベンチに座っていた。
「どら焼きと、酒饅頭と、琥珀糖がありますけど。何か召し上がりますか」
「いえ……」
選択肢とは別に、冷たい麦茶のボトルが、桜里の手の中に押し込まれる。まだ夏は始まっていないしこの町はずいぶん涼しいが、それでも、冷たい麦茶は適切な選択と思えた。砂川はいつでも、適切な飲物をくれる、と思い、とたんぐらりと頭が煮えた。まずい。「心臓をなくして」しまう。
「……ありがとうございます」
「弟さんに、連絡がつかなくて、すみません。出たいときしか出ない人なので」
「蓮里(れんり)の――」とても久しぶりに呼んだ名前は震えて、真実味がなかった。「弟の。あの、あなたは、弟の、ご友人ですか」
「いいえ」
砂川は言下に否定したあと、困ったように笑った。
「はは。これじゃ変ですね。うーん、何て言ったらいいのかな。うーん。この町の、離レ森町のことは、ご存じですか?」
「あまり多くは。占い師が多い街とは聞きましたが」
「それも事実ですけどね。ここでは同性のカップルが普通なんです。だから、うーん、まあ、いいか。僕は蓮里さんの夫です。一応、対外的には。契約をきちんと交わしたわけではないですが」
「じゃあ」自分の感情の速度に追いつけないまま、桜里は言った。
「おとうと、ですね。あなたは、わたしの。あの、お名前をうかがっても?」
「和(なごみ)といいます」
「和さん」
自分の感情の速度に追いつけない。この歓喜はいったい、どういうわけだ。何もかもが調和したような、この感情の正体は、何だろう。涙がこぼれて、でも悲しかったわけではなかった。
「よかった……」
砂川和が慌てたようにハンカチをとりだし、迷ったように引っ込めて、封を切っていないティッシュペーパーをとりだしなおす。ずっと泣きたかったが、泣いてもだれも、ティッシュペーパーを渡してくれない世界で、泣くのは無意味だと、そう思っていた。
忘れるべきものを手放し、取り戻すべきものを与えられたので、泣いている。

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