9 胡蝶さんはなんでもない日に、がらんとした部屋で剥いてしまったアボカドが固かったことに気づく話をしてください。
「さみしいなにかをかくための題」より
胡蝶は自室にいる。二十歳の誕生日に何が欲しいかと聞かれて、一人暮らしをしたいと言ったら与えられた部屋に住んでいる。胡蝶の父は事業に成功していて、欲しいものはなんでもくれる。彼が用意できる範囲のものなら。
がらんと広いばかりの部屋で、調度品は少ない。ここで胡蝶は、だだぼんやりと刺繍やレース編みをして暮らしていた。祖母が死ぬまで、ずっと。
ネットスーパーで買ったアボカドは、剥いてみたらまだ青く、見知らぬ果物のようだった。見知らぬ果物であるということにして、薄く切って蜂蜜をかけて、ベランダの光が入る作業デスクに置いた。思い立って紅茶にフェネグリークを入れる。まったく知らない国のお茶会、と思った。デスクの上には作業途中の刺繍が、海辺の風景を描いている。
祖母の家を下った先に海があったのを、なんとなく思い出して、刺し始めた。
旅を終えたので元通りぼんやり暮らしている。旅を続けたほうが都合が良かったな、と思った。
もちろん、旅立ちたければいつでも、また誘うと言うか、呼び出すことができる。胡蝶は相月ひよりを雇用しているのだから――そういうことになっている、なってしまっている、のだから。
祖母の遺言には、「博物館についての全てを胡蝶に譲る」と書かれていて、葬式の席で相月は、その遺言について、「そこには私が含まれる」と言った。「夢子さん(祖母のことだ)は、相月ひよりを含めて、博物館を胡蝶に譲る」と、相月自身にそう言っていたと。第三者の証言はない。相月と祖母がどんな時間を過ごしていたのか知るものはいない。
別に仲の良い祖母ではなかった。子供の頃幾度か預けられたことがあったが苦手な相手だと思っていた。持ち物の全てが美しくて、その点は羨ましかった。中学校に上がって以降は、会ったかどうかも記憶にない。
「耳の標本」に、胡蝶が取り付かれたのは、あの葬式の日だったのだろうか。曇天の下で、父は雨を心配してばかりいて、胡蝶が相月ひよりとはじめて会ったあの日。
探していたのは結局、「胡蝶の理想の、耳の標本」なんかではなく、欲しかったのが単に「相月ひよりの耳」だったのだとしたら、それはもう手に入っているということになる――の、かも、しれない。
そんなわけがない。
胡蝶は自嘲気味に笑う。どんな雇用関係にあっても、その人の体はその人自身の固有の財産で、他の人が所有することはない。どんなに欲しいと思っても。そう、たとえば、恋人にでもならない限り、いや、なったって、所有はできないだろう。
しかし相月ひよりは、恋人になるより簡単だと、胡蝶に笑って言うような気がした。そんなのは簡単なことだ、もう所有していると、他ならぬ相月が、そう言う気がした。たとえばこんなふうに、もう言っていたような気すらした。
「だって夢子さんは、全部君に譲ったんだから」

※コメントは最大140文字、5回まで送信できます