10.夜のホテル

#novelmber 10.未解決

#novelmberは11月にお話を書く企画です。詳細X


 痩せぎすの、浅黒い肌の男だった。細面で、巻き毛を鼻の上まで垂らしていてもシャツに皺が寄っていても何故か不潔に見えず、いっそ「そういうオシャレ」ととれなくもない。年の頃は二十歳そこそこ。思ったより若い。
 男は部屋に入ってきたあと、茉優(茉優)をみとめて、足を後ろに引いた。逃げ出すか、と思い、大きな声を出す準備をしたが、それは不要な準備で済んだ。不要なら不要にこしたことはない。

「こんにちは。砂川和(すなかわ なごみ)さん?」茉優の泣き落としに引っかかって見せてもらえた、ホテルの台帳に記載されていた名前を告げる。名前を呼ばれた男は、ほんのわずかに、怪訝そうな顔をした。

「……はあ。はい」逃げず、しかし警戒心を露わにしたまま、茉優に返答する。

「扉を閉めて、室内に入って」

「指示されるまでもなく、俺の部屋なんだけど。誰?」

「この状況で私が大きな声を出したらあなたがどうなるか、わかる?」

「わかるけどさ」

「私に、『女を利用』させないでほしいの」

「しないでほしい。どうしたらいい?」

「扉を閉めて、室内に入って」茉優は繰り返した。男は従った。

 離レ森町を離れて、とある都会の喧噪の中、夜、狭く古いビジネスホテルの一室。窓の外はすぐに隣のビルだがそもそも都会の空には星のまたたきはなく、壁には謎めいた穴が開いていて、ベッドの他にはほとんど何もない、そういう部屋だ。作家が借りている部屋と聞いていたが、別にペンの一本も、パソコンの一台もなかった。茉優がベッドに腰掛けているので、男は入り口の扉に背中をもたせかけて立ったままだった。他に居場所がないのだ。

「で?」

「神狩(かがり)ウイについて調べているんです」

「誰?」

「会ったでしょう?」茉優はそう言い、所属機関の名前とともに、再度「神狩ウイ」と繰り返した。

「ああ……いや。待って。順番に説明してよ。誰? っていうのは、あんた誰? ってことなんだけど。『女を利用』したくないんだろ? 逃げないから、穏便に行こうよ」

「逃げませんか」

「逃げない」

「荷物をこちらに」

「逃げないってば」言いながら、男はポケットを探り、スマートフォンを、次いでコンビニのビニール袋を、最後にアクリルバーのついたルームキーを、ベッドの上に放った。床にあぐらをかいて、靴を脱ぐ。片手で靴をひとつもてあそびながら、顔を上げた。「で?」

「私は浅野茉優(あさの まゆ)。神狩ウイと同じ機関の者で、神狩の妻です」

「妻ね。苗字別だ」

「苗字が変わると不便だし、意味もないですから」

「了解。あんたが誰かはわかった。それで? なんでここにいるの」

「あなたを探していました。神狩に会った、最後のひとりがあなただと、確認が取れたから。出版社を伝手に電話番号を入手して連絡をしたけれど出てくれないし、追いかけても捕まらないので、こういう手段に出たわけです」

「ああ……電話の人。うるさいからスマホ使えなくて、原稿が進まなかった」

「出てくれればこんなことにはならなかった」

「わかったよ」降参、というように、男は顔の前で手を振った。「機関の人ね。会ったよ」

「いつ?」

「1ヶ月くらい前だと思う。離レ森の占い師について知りたいって言ってた。俺に言われてもさ。知ってることは話したし、もっと知りたいなら少なくとも俺より詳しい人を紹介するって言っといたけど、それきり連絡ないな。離レ森に現役の占い師なんてけっこういるんだから、そっちと話がついたんだと思ってた。たいした話はしてないよ」

「何を話しましたか」

「世話になってる人が離レ森町に住んでて、占い師の孫なんだ。だから、家に占いの道具が残ってて、資料もいくらか読んだ。アンダーカレント――潜流、のこととかね。潜流について聞かれたから、知ってることは話した。でも、そんなの別に、占い師は知ってるんじゃないのかな」

「神狩は、潜流に関心を持っていた。要するに、そういうこと? それだけ?」

「知らないけど、多分」

 茉優は息をついた。空振り、ということだろうか。

 離レ森に潜流があるという伝説。それくらい、機関で調べがついている。神狩は一体、この子供じみた男から、何が聞き出したかったのだろう。出版社で聞きだした名前と、ホテルの帳簿の名前が違い、茉優は「夫の浮気に心乱した可哀想な妻」になって一芝居打つ必要が生じ嘘泣きまでしたのに、全部徒労だったのだろうかと思うと、急にどっと疲れた。出版社でも、この名前で泊まっているかはわかりませんよ、ペンネームも偽名もたくさん持っているから、とは聞かされていたが。

 何も分かっていない。スタート地点に巻き戻し。どうしたらいいのだろう。

 茉優は、急に疲れてだるくなった腕を持ち上げ、傍らに落ちたスマホを取り上げた。

「神狩とのやりとりした、正確な日付は、スマホを見たら分かりますか」

「分かると思うよ。返してもらっていい?」

 立ち上がって、二歩も歩けば近づける狭さだ。スマホを手渡ししながら、何の気なしに茉優は尋ねた。

「ところで、原稿はすべてスマホで?」

「ああ。うん。Googleドキュメントに書いておけば、データの整形は人がやってくれるからね。誤字脱字も見てくれるし。……あー、あのさ、俺からも質問いいかな」

「答えたいことしか答えないけど」

「答えたくないなら答えなくていいことを聞くからいいけど。歳の離れた人とするのってペース合わせるの大変じゃない? 割と気を遣うっていうか」

「は?」

「あ。答えたくないなら――」

「そうではなく。誰のことですか?」

「神狩ウイさんだよ。思いだした。けっこう、えーと、おばさんだったから、それで、あなたとの関係性が読めなくてよくわかんなかったんだ。それで混乱して何の話だかわかんなかった。でもよくあることだよな。えーと、三十歳くらい離れてない? そんなことないのかな」

「待って。あなた、誰に会ったの?」

 男は目を細めた。何かに気づいたように。あるいは、単に、茉優の表情を、読み取って、精査しているというように、目を細めて、ゆっくり、言った。

「浅野さん、より背が低いくらいの、すごく小さい、中学生みたいな見た目の、中年の女、だったけど」

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