早く昔話になればいい。
重い雲がのしかかるような町の、ゆるく傾斜した道の真ん中を曲がった突き当たり。古いアパートの、一階の、角部屋。錆びた門扉は開け放たれたままだった。看板どころか表札もなく、玄関の前には枯れた鉢植えがひとつ放置されている。
桜里(おうり)は門の前で三分、躊躇った。しかし迷っても仕方がない。
鳴らしたベルをゆうに一分待って、全て間違いだったような気がしてきた頃、扉が開いた。内側から出てきたのは、華奢な中年女性だった。後ろから遠目に見れば中学生と間違えそうな、黒髪をおかっぱに切りそろえた姿が、桜里を見上げる。
「予約のひと」
「ええ。はい」
「どうぞ」
玄関からは、甘く渇いた、花の香りが漂った。
ダークレッドの布張りの、やわらかく沈むソファで、ティーカップを持って、桜里は俯いている。来て良かったとは思えなかった。しかし来なかった方が良かったとも思えなかった。何かが変わるかもしれないことなら、なんだってやればいい、と、そう思ったからここに来たのだ。
「じゃあ、手順を説明しますね」
向かい側のソファはダークブルーで、色が揃っていないことがむしろ適切な距離を与えている、と桜里は思った。腰掛けた女性は、瓶をひとつと紙を一枚差し出し、ペントレイを指し示した。トレイには三本、ペンが並んでいる。朱い色鉛筆、緑縞の万年筆、黒いボールペン。それから、瓶の大きさに合ったコルク栓。机の端には、ハンドベルがひとつ。
「好きなペンを選んで、お書きなさい。そうしたら瓶に入れて、息を吹き込むこと。十分吹き込んだら、蓋をして、ベルを鳴らしてください。おわかりかしら」
「はい」ホームページで読んだとおりだ。顔を上げて桜里が答えると、女性は「どっちでもいいんだけど」と言葉を続けた。
「何があるか分かりませんから、分からない言葉で書くことですね」
「分からない言葉」
「絵だって、図だって、ただの線だって、何だっていいけど、傍目に読み取れないように書いておく方が安心ですよ。何があるか分かりませんから」
「何があるんですか?」
女性は薄く笑って、唇に指を当てた。よく分からないまま、しかし理解できたような気もして、桜里も微笑んだ。あるいは少なくとも、自覚的に眉を下げた。
ホームページには、「記憶を買います」と記載があった。買い取られた記憶はいずれ薄れて消えてしまうとも。金が貰えて記憶もなくなるなんて都合が良すぎると思ったが、できることは何でもした方がいいとしか、今の桜里には、思えなかった。
結婚がしたかったわけではなかった。
もう名前を覚えておく必要もない。だからただ、男、とだけ呼ぶことにする。桜里は男に人生を救われたことがあった。とある朝、男と桜里は駅ですれ違った。男は桜里のハンカチを拾って渡した。たったそれだけ。桜里はそこでしかし泣き崩れて、男は困った顔で立ち去ろうとして、しかし桜里が手を掴んで引いたので、留まっていてくれた。
会社で虐められていた頃で、人が声をかけてくれただけで救いだった。たったそれだけのきっかけで、でも桜里には、救世主だった。
桜里にとって救世主だからって、男にとっては何でもない。
心臓を盗まれるまえとあとに、人生がわかれて、生きてきただけだった。
黒いボールペンを手に取って、黒い線を一本引いた。それ以上何も書けなくなった。
親に結婚をほのめかされて、好きな人がいると言ってしまった。でも男はただ、ハンカチを拾っただけなのだ。桜里の心臓を持っていることすら知らないで、今頃どこでどうしているだろう。あの日ベンチの傍らに座って、ホットココアの缶を差し出してきた男は。泣き止んだ桜里と名刺を交換して、けれど連絡は一度もしなかった。だってハンカチを拾ってくれただけだったから。
早く昔話になればいいと思う。桜里のハンカチと交換に差し出してしまった心臓の話を忘れたいのではない。母親が、いいひといないの、と声をかけてくるようなことがなければ、自分の心臓の在処を人に話すことなんて生涯なかったという、その事実が桜里を苦しめる。好きな人はいるけど。でも、うまくいかないの。ばかみたいだ。うまくいかないの、だなんて。
全然違う。心臓がもうないだけなのだ。
だから二度と誰にも心臓をあげられないので、結婚なんてありえないというだけなのだ。
桜里が女だから男と暮らすと良いだなんて、誰も言わない世界に、早くなればいいのに。
瓶に息を吹き込もうとして、呼吸はつっかえた。喉から吐き出された薄い息は、けれど心臓がもうない女にとって相応しいと思った。コルク栓をしめた。
女性は瓶に白い紙を被せ、白いリボンで結びつけた。そうしながら、ちらりと桜里を見た。
「ここって非合法なのよ」
何の話だかわからずに桜里は瞬きをした。女性は薄く笑って、「そういうルールなの」と言った。
「別にあなたは捕まりませんよ。清濁併せのまないとね。町だってそう。わかってるのよ」
「あの。何の話ですか?」
「ああ。……昔話があって。ここでは、記録をするのに資格が要るの。記録したことは全部、森に送られるのね。そういう土地柄なの。だからわたしは、犯罪者」
「……大丈夫なんですか?」
「でも安心なさい。あなたの瓶は、誰にも見せたりしないから」
「いつ」どうでもいい、と思った。「いつわたしから、消えますか」
「この家を出たら」
「随分簡単」
「そう。あんまりはっきり書くと、バカみたいに聞こえると思って。でも本当ですよ。あなたはここに、『和菓子を買いに来た』の。そのあとは、森に参ってから、お帰りなさい」
「そうでしたね。そうします」
「わたしはどら焼きが好き」
「どら焼きを買いに来ました」
「門を出て左、右、左と曲がったら、川辺にありますからね。和菓子屋が。お迷いになったのね。無理もないですよ。わかりにくいところですからね。じゃあ、少ないですけど」
白い封筒を渡されて、中身も見ずに鞄をしまった。甘い、柔らかい、植物性の香り。いずれ忘れてしまうのだろうか。何もかも。過去になって。
思い出せるうちに桜里は舌先に、男の名前を転がした。
そう。忘れてしまうのだろう。

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