2.適切な言語

 二回目をしてほしい、と頼んだのは和(なごみ)だった。だから誰のせいにもできない。

 随分前の話だ。

 体を動かす。ぎりぎり、動かしてもかまわない、と思える、傾けた、程度の動きだったが、動いたには違いなかった。ぐったりと疲れた体の芯がまだ熱を持っているような気がする。和はもうじき四十になり、こんなことはいつまでもしていられない、と、改めて思う。もう二度と射精できないんじゃないかと思うくらい動けなく、される、ようなことは。

 でもきっと、いつまでもつづきはしないのだろう。

 古い家の中にいる。丸い電灯が上から、しらじらと照らしている。夜だ。

 昭和の終わりに建てられた家は全体的に間延びした雰囲気で、夏暑く冬寒い。そんな家の真ん中、和室の中央にのべられた布団の、布団カバーが縒れて乱れている。掛け布団は遠く押しやられて、部屋の向こう側にあった。

 さっきまで、和は白城(しらき)に抱かれていた。

 ――もっと適切な言葉があるような気がするが。性行為をもったと言うには一方的すぎ、犯されたというには合意が伴い、しかし愛し合ったという言葉は全く、状況に即していない。愛、と思ったところで和は笑った。白城には似合わない言葉だ。

「笑ってる」

 状況をただレコードするだけの、端的な言葉が降ってきて、頭をそちらに向ける。開いた襖に肩を預けた痩せぎすの、目ばかり光っている男が、ゼリー飲料のパックを掴んで立っていた。ゆっくりとゼリー飲料のパウチを開けて、飲みながら、横たわったままの和を眺めて、多分、記憶している。

 情報を収集している。

「動けないんです」

「笑った理由ではないと思うけど」

「ああ……そうですね。さっきまで、あなたがしていたことを、表す適切な言葉が思いつかなくて。思いつく全部が違うような気がして、相応しくなくて笑っていました」

「言って」

 白城は、あきらかにまだ残ったゼリー飲料を持て余して指先で揺すりはじめながら、告げた。「出た案、話して」

「……抱かれる、抱き合う、セックスする、性行為をする、犯される、……愛し合う」

「確かに、不適切だ」

 言語感覚が一致していて嬉しい、と思った。

「見てただけだよ」

「……そうですね」

「砂川さんを見てただけだ。もっと見て欲しい?」

「見て欲しいですが」和はもう一度笑った。「体がおしまいです。僕にもゼリーをください」

 白城は迷わず、飲みかけのそれを和に放った。和は白城のその行為を「侮辱」ととることもできたし、「ご褒美」だと思うこともできたが、白城が与えたかったのは「ゼリー」であってそれ以外の何でもないということは、よく知っていた。和がどう思うかは、和の問題で、それを白城は「見たい」のだ。

 和がどう思ってどうなっていくのかを、「見たい」から、帰ってくる。ここに。

 畳の上に枕元に転がったものを、手を伸ばして掴んだ。与えられるままに飲んだ。

 いつも曇天の町の片隅に建った日本家屋は和の持ち家で、白城の別荘である。


 砂川和(すなかわ なごみ)は昔、編集者だった。五年前に退職し、三八歳になった今は何もしていない。自認としては「無職独身中年男性」である。無職独身中年男性というのがそれなりに社会的不安を抱えている存在であると理解しているので、せめて身ぎれいにするよう気をつけてはいるが、朝いちでランニングをする習慣はすぐに辞めてしまい、緩慢に太っている。

 実際は、家事をして、白城がいるときは料理を出し、仕事の相談に乗ったり、ろくに電話に出ない白城のために電話を受けたりしていることもあるのだから、「主夫」とか「マネージャー」とか、和が普段していることを表す言葉はあるような気がする。が、しかし、和にとっては「何もしていない」という表現が一番適切である。何もしていない。あるいは、見られている。

 白城は和の「先生」である。かつて和が出版社で働いていた頃担当していた小説家だ。本名を含めた名前がいくつかあってややこしいのだが、和が担当していた名前は大体「白城美里(しらき みさと)」といった。和とは十五歳、年が離れていて、だから今は二三歳だ。

 白城が最初に和を抱いた――そのときは「抱いた」で適切だった――のは、白城が十八歳の時である。成人したから、と白城は言い、まるで旅行の計画を告げるように、これからやりたいと思っていることを和に告げた。

 和は「そんなことしたくありません」と言わなかった。「できません」とも。和は一度も、彼にその言葉を告げたことがなかった。良い編集者ではなかった。和は白城のビジネスパートナーというより「保護者」であり、寄せているのは評価や期待というより「激しい愛着」だった。

 だから白城は和を抱いた。それを抱いたと呼べるなら。白城はずっと冷静だった。じっと見ていた。自分自身の身体反応を含めて、調査し、理解し、レコードしていた。そして終わったあと、「うん。わかった。ありがとう」と言った。

 白城としてはそれで終わりだったのだと、思う。成人したからセックスがしてみたかった。ただそれだけだ。和にとっては、それだけではなかった。

 あなたに抱かれたくなんてありませんと言いたくなかったから言わなかったし、他の人を抱いてなんてほしくないと思ったから、編集者を辞めた。辞めてから、二回目を強請った。二度目以降も。

 白城がどうして「いいよ」と答えたのか、和は知らない。

 砂川和は白城美里を愛している。とても激しく、深く。でも白城はそうではない。なのに、和を、二度と射精ができなくなるかもしれないと錯覚するくらいひどく抱くのはどうしてなのか、知らない。定義ができない。言葉がない。適切な言語がない。

「先生」

「うん」

「しばらくいるんですか」

「砂川さんを見てもいいならね」

「見る以外の事に興味は?」

 共通言語を作るための時間、食べたり、過ごしたり、眠ったり、笑ったり、定義を話したり、してほしいと強請ったら、くれるのだろうか。

「世界に興味があるよ」

 白城はそう答え、ゆっくりと歩み寄って、かがみこんで、和の目を覗き、それから、覆い被さった。



※2025/11/17 白城がスマホを持っていないという描写があったんですが、のちの展開と矛盾していたので削りました。

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