不安定な足もとで、白城はぐいと茉優の腕を引き、引き寄せた。
「離れないで。溶けるよ」
茉優が視線を向けた先には、椅子がひとつ、残っていた。溶けずに、茉優を待っているように見えた。誘われている、と思った。夜の閨のように。頭がぐらぐらと沸いていて、けれど茉優は、白城の腕を掴んだ。白城は茉優の体を抱え上げながら、言った。
「ここの、本の中に、探していたものがあると思う。離レ森の占い師の技術が記載されている、と、思うんだ」
「外にいる人たちは、もともと離レ森の占い師だった、って……」茉優の声は乾き、少し咳き込んだ。鞄は手元にあるが、しかし今更水筒を取り出すわけにもいかない。時間が、たぶん、わずかしかない。
咳き込み直して、改めて茉優は言う。「潜流の向こう側に行きたがっていた人たちの町なら、占いのすべを遺しておくための塔だと考えるのは、そう外していない気はする」
「探すから読んで。俺は見るのも見つけるのも得意だから。でも茉優さんは、プロでしょう」
「そう。――私って伝統屋さんのエリートで、本を読むのは仕事のひとつ」
白城の指先が動く。塔の崩落に従って落ちていく、あるいは溶けていく本の中で、無事なものを白城は「見て」いく。不安定な足もとで、茉優を抱えて、それはどこか、ダンスのステップに似ていた。拾い上げ、受け止め、本が三冊、茉優の腕の中に入った。視線を走らせ、要点を掴む。受験学習だなと思う。持ち帰れるだろうか、この本、機関に。そう思って茉優は少し笑った。
持ち帰らなくては。私は伝統屋さんのエリートだから。
本を三冊とも、鞄に放り込む。何でも入る大きさの鞄でよかった、と思った。
「わかった。白城さん。でも」
「うん」
「あなたはひとりで、行かなくちゃならないよ」
白城は茉優を見下ろした。いつのまにか塔の一番下まで来ていた。傍らに、ふたりを嘲笑うように、椅子がひとつ落ちている。
森はすべてがオパールの遊色に染めあげられ、崩れて、溶け落ちていく。溶けたものは円形に沈み、かつて離レ森町だった場所は、いずれ、広い湖となった。白城だけがそこに立ち、腕に茉優を抱えている。茉優は白城の首に腕を回し、見上げた。
「白城さん。前に言ったし、神狩が言っていたのも聞いたね。潜流を旅するためには、感情が必要、自分以外の感情を纏っていかなくては、飲み込まれてしまう。その組紐が万能とはかぎらない。私はあなたの鎧になる」
「……消えちゃうと、思うんだけど」
白城は固い声で言った。緊張していて怖がっている、と、茉優は思った。たいして長いつきあいでもないのに、わかるようになって面白い、と思った。
「こんなことで消える気ないから、頑張って。全部元に戻して」
「一人で行くの?」
「一人で行って。浅野茉優を、あなたの道具にさせてあげるから。今だけだよ」
白城はいっとき黙り、そして、それでも、「どうしたらいい?」と訊ねた。
茉優は、本で学んだ、離レ森の占い師のすべを伝え、白城の手を取って、遊色の潜流の上に降り立った。つま先から沈んでいくと知りながら、白城の指を、その湖に踊る遊色に触れさせた。
またあとで。
言葉がうまく形になっていたかはわからない。全身を、さびしい、かなしい、そしてあたたかい感覚が包んだ。白城が泣きそうな顔をしていて、それは見えなくなったけど、気配はずっとそばにあった。もう話しかけられなくなって、死ぬってこういう感じなのかなと思った。
外側にいて話しかけられないのでさびしいけれど、すぐそばにいる、というのが死ぬということなのかもしれないと思った。
しゃがみこんで泣いたのは多分すごく久しぶりで、世界が終わるってこういうことなのかなと思った。一人で生きるのが怖いと思ったことなかったと思って、そうして、でもずっとひとりじゃなかったんだなと思った。浅野茉優が見えなくなって、そばにいるのかどうかなんて、俺にはわからなかった。
俺は占い師でもなんでもなくて、だから、実際浅野が俺を支えてくれているのかどうかは、今はもうわからなかった。きっとプロならわかることなんだろうけど。でもそもそも、俺という人間が生きてこられたのは、周りの人が少しずつ助けてくれていたからで、それも分からないまま生きてきたから、浅野は俺を叱ったのだろうと思った。
膝をつく。揺れて輝く潜流の表面に、手のひらをつける。思い出す。
砂川の肌の感触を、俺は知っている。
ぎっしり詰まった革にも似た、重たい手触りが、濡れて、震えるところも知っている。
手は触れて、目は見た。それを知っている。穴と皺と汗を知っている。懇願する視線も知っている。
たくさん見たから。
「俺、知ってるんだ。砂川さんのことを、見てたから。約束したよね。ずっと見てるって」
横たわった身体を、見ている。
目の前に見ている。
遊色の湖の上、砂川和の身体が、浮かび上がって、湖に横たわっている。俺はまるで性行為の最中みたいに砂川の体にまたがって、身を屈めて見下ろしている。性行為の最中じゃないので二人とも服を着ていたし、今からするにはちょっと、人が消えすぎていたけど、してもよかった、べつに、それでうまくいくんなら、なんだって。
「――ずっと見ていられないかもしれなくてごめんね。約束したのに」
どれから話すのが一番大切なのか、わからなくて、でも打ち明けるのがいいと思ったから、ずっと引っかかっていたことを、舌先に滑らせた。声は震えて、怖いと思った。とても怖いと思った。
「いつか何もかもわからなくなって、砂川さんを見ることもできなくなるんだ。そうなるより先に、遠くに行きたかった、ずっと、でも、帰って来るのも、止められなくて、ごめん」
言葉が途切れて、それから、もう一呼吸、続けた。
「一緒にいてほしいと、こんなことになっても願ってごめん」
手が触れた。頬に触れた手に導かれて、俺は顔を落として、くちづけを交わした。砂川は困ったように笑っていて、俺を見ていた。
「お父さんのことですか」
「うん……」
「もっとちゃんと話せばよかったですね。知らなかったから」
「ごめん」
「別に、今のあなたが好きなわけではないですよ」
心臓が勝手に痛んで、でも、砂川はただ、言葉を続けた。静かに。
「時間軸は関係なく、現在過去未来を通じて、あなたという存在を愛しているんです」
砂川は、静かに言った。こんな大騒ぎを起こしたきっかけとは思えないほど、いつも通りに見えた。でも俺の目は何も見ていないのかもしれない、これまでも、これからも。
「あなたの頭の中にしか興味がないわけでも、目の前のあなたしか愛していないわけでもないです。あなたが何者になっても構わないんです。僕だってあなたを、見ている」
「俺を愛してるの?」
「はい」
「ずっと愛してる?」
「もし、見えなくなっても、ずっと。だって潜流の中にいるときだって、あなたのことだけを思っていた。見えなくても、聞こえなくても、手が触れなくても――ここに、触れていても」
砂川が俺の手を取ったとき、ぷつりと、組紐が千切れて、潜流に落ちた。
ゆるんだ紐がほどけて。意識が一瞬、途切れた。怖くはなかった。
何もかもがそばにあったから。

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