外マドレーヌ─哉村哉子いろいろ置き場

金星は女である

知らない場所にいる。
とはいえ極端に知らない場所というわけでもない。辺りを見回せば、まず視界に入るのは引いたままのカーテンで、カーテンはまっさらに新しい。辺里(へんり)の家のカーテンは同じ場所に二十二年ほどぶら下がっているので、定期的な洗濯を経ても薄汚れていて、そろそろ買い換えた方が良い。この家のカーテンは辺里の家のカーテンとは似ても似つかない新しさだった。
ということは、と辺里はカーテンを眺めながら考えている。この部屋の主は引っ越してきたばかりか、カーテンを買い換えたばかりである。
緑色のカーテンの向こうからは、強い光が射していた。季節から考えるとおそらく十時は過ぎていて十一時にはなっていない。幸いなことに今日の講義は午後からだった。風呂に入って朝食、昼食だろうか? とにかく、食事を摂る時間はあるだろう。
クッションの効いたベッドから天井を見上げて端まで見渡す。広いとは言えない。
多分、学生の部屋だ。
そう思って、身を起こそうとしたところで、体が誰かにぶつかった。
やわらかくて温かい体。他人の体。瞬間的に身を引いたところで、相手が薄く目を開けた。若い男だった。辺里は彼を知っていた。今年辺里が受け持っている教養科目を履修している、たしか経済学部の学生だ。大量の学生の顔と名前を覚えつづけるのは、なかば職業病だった。
彼の名前は、ここでは問題ではない。
辺里は学生の名を呼び、「おはよう」と言った。ひどく気まずかった。他人に朝一番で挨拶をしたのは、二十年以上前のことだ。
「おはようございます、辺里先生」
生徒は明るく言った。
服は散らかっているがゴミは散らかっていない程度の、雑然とした狭い部屋、何もかもが新しく、そして新しいうちにここを引き去るだろう部屋。学生の部屋。親しくもない学生の部屋で、辺里歩は目を覚ました。

辺里歩(へんりあゆみ)は今年四二歳になる男性で、職業は考古学者、H県立朱武(あかたけ)大学に所属している。専門はアラビア神話の女神アル・ウッザーであり、特に、彼女が天体由来(金星とする説が有力)の神として信仰を集めていたとする説を精査している。
しかし、話がうまくてわかりやすいからという理由で、アラビア半島およびエジプト近辺の歴史の入門的な仕事に忙殺されていて近頃あまり専門の研究は行っていない。教養科目を多めに受け持ったり、新書を出したりしている。しかしそもそも、大学の運営や生徒のケアに関わるような仕事のほうが更に多くて学問に没頭する時間もない。
辺里は人間が嫌いである。というか人間に限らず、リアルタイムに起こっていることが基本的に全部嫌いで、太古に死んだ人間が見いだした信仰の名残、その、もはや乾ききってしまった気配が好きである。古代人の見た星の輝きについて研究するのはかなり気持ちが良いので、アル・ウッザーが金星とは全然関係ないという学説が主流にならないといいな、と願っている。
しかし、人間嫌いをあまり表に出すのもどうか、あまりにも「学者」っぽすぎて「ダサい」のではないかと思って、曖昧に笑い適当にごまかしいい加減に人付き合いをしてきたところ、世間の評判はすっかり「人当たりと面倒見の良い人」になってしまった。おそらく、心底どうでも良いと思いながら話を聞いてやる人のほうが、興味があって話を聞いてやる人より、かえって誠実に見えることがあるのだろう。対応自体は曖昧で適当でいい加減ではあっても、聞かれたことには何事もはっきり答え、振られた仕事は適切にこなすのが辺里の特性でもあり、それが悪い方に転がってこうなった、とも言える。
辺里は器用な人間だったが、器用貧乏な人間でもあり、勉強は不得意ではなかったが、特別賢い人間というわけではなかった。
気がつくと辺里は、朱武大学に通う学生の人生について、悩みについて、恋愛についてや進路について、あらゆる情報を見聞きできる立場になっていた。その路線で別の研究ができそうなくらいだったが、辺里が心理学や精神病理の専門家というわけではないという点も効いているのかもしれなかった――ネタにされないという意味で。
学生の相談に乗ったりしてるよ、と言うと、実家の親はそれなりに安心した顔をする。
そうだった、と辺里は、昨日のことを思い返す。
昨日は実家にいた。親戚筋の老人が天命を全うし、辺里は日帰りで葬儀に参列した。別に出なくてもよくないかという気持ちがないではなかったが、こういうときに呼び出されれば帰って義理を果たすのが辺里歩であった。帰ると自然、親と話すことになる。親と話すことになれば自然、仕事の話と、結婚の話である。
仕事の話は、まあともかく。
学者なので込み入った研究をしている、という話は親にはウケない。辺里の親は定型的な認識を持つ定型的な人間たちであり、アラビアは彼らにとってはかなり遠い場所であり理解を超えていたし、アル・ウッザーに至っては何故誰にも真相が分からない太古の女神の正体について知りたいのかという前提すら理解されない。彼らは辺里に、医者とか、学校教師とか、公務員とか、理解の範疇の存在になってくれることを求めていた。昔からそうで、今でもそうだ。
「大学で学生の世話をしている」のは、もしかしたら、親に伝わるレベルの業務を挟むことで「説明しやすくしている」だけなのではないかと、思わないでもない。
そして結婚。
辺里は四二歳で、四二歳というのは彼の親にとっては「そろそろ子供が大学に入っていてもおかしくない歳」であった。そして辺里は、前述の通り、人間が嫌いだった。
辺里は面倒なことが嫌いである。彼の人生はかなり面倒な形になってはいたが、それはそうと嫌いであるというのは事実である。だから辺里は二二歳のとき、大学院進学のついでに恋人を偽造することにした。
恋人は女性である。同い年で、小学校の教師だ。H県に家族がいる。家族の介護が必要で、H県を離れられず、泊まりの旅行なども難しい。また、結婚することで家族の問題を辺里と共有することに抵抗を感じている。辺里と彼女は深く愛し合っているため、結婚できないことや、その他の制約は、二人にとっては問題ではない。
架空の女の架空の家族に罪を押しつけることは、間違ったことだろうか?
少なくとも、両親は納得している。した上で、まだ結婚しないのかと尋ねてくる。辺里になんらかの罪があるとしたら、辺里の家族にも罪があった。架空の女の架空の家族の死を暗に期待することは、かなり、、間違ったことではないだろうか?
たまに思う。大学も大学院も奨学金で進学して、アルバイトをこなして生活費を稼いで、家を出てひとりで暮らして、何もかも自由にしているのに、何故親に言い訳が必要なのだろう。何故彼らとの関係の辻褄を合わせなくてはならないのだろう。しかし実際に、辺里の両親と辺里は、架空の女をクッションにして、なあなあの、やさしい、やわらかい関係を続けているのだった。
「まだ結婚しないの」
「なかなかね」
「いつまでもそんなこと言って……ほら、――さんのとこの――ちゃん、今年就職ですって。覚えてるでしょ、同級生の」
「ああ、そうなんだ。早いね」
「十八やそこらで結婚するのも、どうかと思うけどねえ」
ここで母は深いため息をついた。
まあ、全て嘘というわけでもない。
金星は地球のそばにあって、辺里の生涯はアル・ウッザーに捧げられているのだから。生涯を捧げたというほど真面目に研究にいそしんでいるわけではないが、一応そういうつもりでいるのだから。
父親はあまりコメントしない。もともと無口な人なのか、家族に喋ることが特にない人なのかはよく知らない。彼は新聞を読んだり、テレビを見たり、煙草を吸ったり、酒を飲んだりしている。辺里は人間の中でも特に年上の男が嫌いであるため、父親が「息子と酒を飲み交わすのが夢だったんだ」とか言うタイプではなくてよかったなと思っている。あるいは年上の男が嫌いであるということはさすがに隠しおおせていないのかもしれない。どうだろうか。辺里の二十年にわたる嘘をそのまま受け入れる家族が、辺里の態度の細かい違いに気づくだろうか。
年上の男だというだけで息子に嫌われる父親はやや気の毒ではあった。
辺里は、子供の頃からしたいことを自分で選び、自分で全て決め、親からの世話は必要最低限しか受けていないと自負していたが、それなりに親に情があり、それはおそらく、辺里にとって不幸なことだった。

「先生、――の前にぶっ倒れてたんですよ」
学生は朗らかにそう言った。察するに――というのはどうやら店の名前らしいが、全然覚えていない。
明るい風貌の男だった。派手な色のTシャツは清潔というか、買ったばかりのように見えるが、髪はそろそろ切った方が良い。部屋には似たようなTシャツが散らかっていて、辺里が見るともなく見ていると、「これバ先で割引で買えるんです」と説明してきた。バ先というのはアルバイトとして勤めている先のことだ。
「へえ」
「古着屋なんで~」
「あのね、人間が倒れているのを見かけたら救急車を呼んだほうがいいよ。放置しないでいてくれたのは助かるけどね」
「でも先生、クソ酔ってただけだし」
「酔ってただけかどうかは君にはわからないでしょう」
「そうですけど。まあいいじゃん、死んでないし」
そうかもしれない。
「センセーでもアホほど飲むことあるんだ」
「本当は先生は酒を飲みまくって路上で発見されてはいけない」
「怒られる?」
「怒られる」
最悪、罷免される可能性もある。大学教授は、あんがい、印象が大事なのだ。
「黙っててほしい?」
学生はへらへらと笑って聞いた。辺里もへらへらと笑って言った。
「そうしてもらいたいね」
「いいすよ。俺が良い奴でよかったねえ。納豆ご飯でいい?」
「もう帰るよ」
「いいからいいから。俺たちの仲じゃん」
二人はまだベッドの上にいる。並んで座っている。肩が時々触れる。距離が近いのはおそらくわざとだ。辺里は人間の体温が嫌いである。やりづらいが、感情的な態度を取りたくもなかった。
有り難いことに学生はそこで話を切り上げて立ち上がり、冷蔵庫を開けた。

辺里は昨日の夜、酒を飲んでいた。
両親に会うとくさくさする。両親に会うことでくさくさしているのか、架空の女の話を続けることに罪悪感を抱いているのか、両方なのかはいまとなってはわからなかった。最初に入った駅前の店で、狭いカウンター席に詰め込まれ、肩が触れる距離で煽った酒はうまくなかった。漠然とした嘔吐感は、酒のせいというより、人混みのせいだった。日曜日の夜、街はにぎやかで、辺里の目には、どいつもこいつも相手を持ち合わせていてそのことに満足しているように見えた。
いつもと違う道をでたらめに歩いて、目についた店に入ったら、店員どころか誰もおらず、迷って勝手に座った。しばらく待っても誰もいない店は冷房が効きすぎていたが、あいにく上着の持ち合わせはなかった。辺里はポロシャツ一枚で実家から帰ってきたところだった。
目を逸らすと入り口に置かれた鏡に自分の顔がうつった。いい人そうであるなあと思う。いい人そうに見えなければ色々楽だったのかもしれない。そう思い、ため息をつき、頬杖をついて、店員を待った。
しばらく待つと店員がやってきて、店にも客が入った。
ずいぶん飲んだような気がする。閉店までいたような気がする。
あの店が、学生の言う、そのまえで倒れていたという店だったのだろうか。

レトルトのごはんを二分電子レンジで温めたものと、パックの納豆を渡されて、終わりかと思ったら冷凍庫から刻みネギが出てきた。二〇%割引の値札がついている。
「意外とちゃんとしている」
「そうなんすよ。納豆食ってれば死なないしょ」
「正しい」
「みんなが~」学生は笑って言った。「辺里先生はなんでも褒めてくれるから、イイ奴だって。困ったら相談しろって」
かなり余計なお世話の進言だが、たしかにそうかもしれない。興味がないのでなんでも褒める。
学生は、だから、と続けた。
「困ってるときはお互い様っしょ。先生も人と過ごしたい時あるっしょ」
「……ありがとう、と言っておこうか」
そんなのはないのでほっといてくれ、と言わないから、ダメなのだろう。
はたして辺里は、曖昧に笑い、しかし教師として、いや、教師としてというより経験の量の多い年かさの人間として、言った。
「よく知らない人間をあまり信頼してはいけない」
年上の男が別に嫌いではなかった頃が辺里にもあったのだが、人間がそう嫌いでもなかった時期が辺里にもなかったわけではないのだが、生まれつきそうだったわけではないのだが、人生はどうなるかわからないので、気をつけた方がいいですよ。
学生はピンとこない顔をして言った。
「でも先生はイイ奴じゃないですか」
僕も、年上の男をイイ奴だと思っていた時期があったんですよ、学生君。
納豆ご飯を食べ、謝意を述べて部屋を出た。きつい日差しが目から入ってきて痛い。盛夏が近い。昼の空には星はみえない。
昔の人は金星を女と呼んだ。
午後の講義までは一時間を切っていて、シャワーを浴びなくてはならないし着替えなくてはならないし講義の準備をしなくてはならないのだが、辺里の人生におけるただひとりの女について、少し考えたい。辺里歩は人間が嫌いだ。にもかかわらず、古い人間の信じた架空の女について、研究をしている。

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