外マドレーヌ─哉村哉子いろいろ置き場

コードゴースト④ 知恵の輪を解く

なにが転落でなにが上昇だか、本当に理解できる奴がいるのか。
森園志乃生は今でもベースギターを弾いている。ライブに行ったことはないけれどテレビに出ているときは見ることがある。志乃生はあの日以来、帰ってくることはなかった。多分一生会わないでも生きていける。志乃生はいつから知っていたのだろう。
伸行は祖父の会社と一緒に出来るところまで頑張り、同時に、検索履歴いっぱいに乳首とか肛門とかそういう単語を打ち込んだ。伸行さんは筋が良いから会社を畳んでもどこでだってやっていけると言われて笑いながら、どこでもない場所について夢想した。弁護士も親族も、紫蘭がどこで何をしているか教えてくれなかったので、逆説的に伸行は、紫蘭は生きていると確信した。
知っていて救わなかったのが志乃生で、気づかないふりをして救わなかったのが伸行だ、と思った。
だから彼らは、よく似ていたのだろう。
森園紫蘭は長い時間をかけて、伸行の体にしるしをつけた。他の人間とは違う体に、伸行の体を作り変えた。その最中に時間を巻き戻せないので、伸行は今度は自分でやることにした。ローションを買って、エネマグラを買って、タオルを噛んで、古い家で伸行はひとりだった。
気持ちよくなるのは、そんなに難しくなかった。
道具が増えた頃、会社を処分することになった。一緒に古い家も処分して、伸行は遠い街に引っ越した。工員達に褒められた機械いじりの仕事は探さなかったが、機械から完全に離れられるとも思えなかったのでタクシードライバーになった。今でも思いついたギャグはメモするし、工場の前を通りかかると郷愁に駆られる。高校生の頃好きだった音楽は今でも好きだし、たまには上京して昔の友人と遊ぶこともある。
上昇と転落。
その違いが分かる奴が、本当にいるのか。
ひとりの部屋で息を殺している。尻の穴にバイブをぶち込んで乳首をいじらないとイケない。というかそうするとイケるようになっていけるようになると紫蘭のことを思い出して悲しくなるので繰り返してしまう。紫蘭のことも、陸空のことも、老いた祖父母のことも、死んだ両親のことも、古い家のことも手放した工場のことも、なくしたすべてのものがあの通夜で伸行を抱いた紫蘭に集約されてグチャグチャに壊れていく。抱いた? 抱いたのだろう。多分。
あれがセックスなら、これもセックスで、セックスとは破壊のことだ。
これまで起こった全部を、踏みにじって壊すこと。
起こったことはなかったことにはならないから、それなら徹底的に壊すしかないのだ。
形が解らなくなるまで。理解の範疇を超えるまで。
紫蘭を愛していた。でも手を離した。紫蘭以外のたくさんのものを愛していた。愛していてそして全てから手を離したのだ。好きになったバンドはとうのむかしに解散していてだから好きだったのかもしれなかった。最初から、そうだったのかもしれなかった。
紫蘭!
夜の街に旅先の島にカラオケルームに、車で通りかかる工場の朝に、影を探している。もっと早く、そうするべきだったのに。

そして誰かが知恵の輪を外して、彼らはいま、コンビニエンスストアにいる。

森園紫蘭は発狂していたらしい。
ある日急に、医者に向かって「あなたは誰ですか?」と尋ねた。それをきっかけに、病状は安定した。らしい。それまでは「伸行」にずっと話しかけていたので、医者に話しかけることができるようになったのは、正気に戻ったということらしいのだった。たしかに紫蘭としては、かなり長い間観覧車に乗っていたような気がしていた。どうして観覧車なのかはよくわからない。断片的な夢を長い間見ていて、その間じゅう、伸行に「殺す気じゃなかった」と説明をしていた。それから「おまえは救われてほしい」とも言った。それからあらゆる懺悔をした。
伸行はそのときに応じていろいろな返事をした――と思った――が、実際のところは紫蘭が聞いた声は伸行以外のあらゆる人間の声だったのだろう。医者とか、看護士とか、患者とか、見舞客とか、まあそんな感じ。
正気に戻った世界では陸空を殺したのは母親だということになっていて、父親は親族の世話のもとで逃げ出した会社に引き戻されて、まあ、いろいろ、あったらしい。伸行がどうしているのかは、教えてもらえなかった。まあ、当たり前だろう。
あれから母親にも父親にも会っていない。紫蘭は逃げている。
目の前の扉の鍵があいている。看護士がよそ見をしている。自動ドアが開いたままになっている。ポケットの中に金がある。誰かが知恵の輪を外している、急にそう思った。辻褄が会わなくて都合の良いことが延々と降りかかる、呪いの上を紫蘭は歩み始め、そして行方をくらませた。

コンビニエンスストアにたどり着くまで。

誰かが、警察を呼んで、と言った。とたん伸行は紫蘭の腕をつかみ、引きずり起こして「走って」と言った。飛びかかって殴り倒したのは伸行で、手を引いたのも伸行だった。彼らは夜の街に駆けだした。コンビニから伸行の家までは徒歩で10分かかって別に近所ってわけじゃないしそもそもコンビニそんなに使わない、から、別にいい、と思いながら伸行は、階段を四階まで上がるまで、手を離さなかった。
「伸行」
子供の頃、紫蘭は彼のことを、のん、と呼んでいた。
今紫蘭は、知らない大人のように、伸行、と呼んで、「泣かないで」と、戸惑ったように言った。
指が震えて、鍵がなかなか開かなかった。家を出るときクーラーをいったん切ったけど、部屋の空気はまだ冷たかった。ソーダ水の買い置きが入った段ボール箱に蹴躓いて、そのまま紫蘭に抱きついた。涙と鼻水を紫蘭の胸に押し当てて、ばかやろう、と言った。言葉になっていたかどうかはわからない。
「伸行」
「おまえに」
紫蘭は困ったように眉をひそめて伸行を見ている。ふつうの友達みたいに伸行を呼んでいる。単に長い間一緒にいたことがあるだけの普通の友達みたいに。何が転落で何が上昇だかおまえにはわかるか。俺は今、間違った判断をしているのだろうか。
知ったことか。
「何もかもおまえにやればもう二度と失わないなら、俺はそれでいい」

森園陸空は地獄にいる。
地獄では永遠に終わらないことをやらなくてはならない。罪を犯したからだ。
そしていつかどこかへ行けるかもしれないらしい。でも難しいだろう。罪を犯したのだから。
何をしたんだったかな。
もう忘れてしまった。
森園陸空は地獄で知恵の輪をしている。知恵の輪は無限にあるので無限に知恵の輪を解かなくてはならない。指はかじかんでうまく動かないし頭の中は混乱してもう何も考えられなくなったがまだ知恵の輪を解いている。
かちゃん。
知恵の輪が外れる。
急に、それが最後の一個だったと気づく。
森園陸空は自分が次の段階に入ったと気づく。でも次の場所が地獄ではないとは言い切れない。わかっているのはもう知恵の輪を解けないということだった。わかってるのか? おい、紫蘭。
お兄ちゃんはもう、鍵を開けてあげられないよ。

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