外マドレーヌ─哉村哉子いろいろ置き場

コードゴースト③ 降る黄昏

駆け込んだ教室は黄昏だった。伸行は、自分がどうして走っていたのか思い出せない、と思い、振り返る。そこは夕暮れの学校で、背後には誰もいない。走っていた理由はなんだろう。忘れ物を取りに来たところだったのかもしれない。焦らなくてはいけない理由があって走ったはずだから、たぶん、たぶんそうなのだろう。
工場地帯の多い町だった。家の近くの工業高校に誰も彼もが通っていて、あまり、中学校との違いはなかった。伸行は当然のようにその学校を選んだし、姉もそうだったし、従兄弟も――そうだ。
従兄弟を、紫蘭を探していたのかもしれなかった。
そう思ったのは、目の前に紫蘭がいたからだ。
揺れるカーテンの影から、紫蘭がこちらを振り返って見ていた。紫蘭の背後、窓の向こうに巨大な太陽があり、ゆっくり沈もうとしていた。逆光になった紫蘭の顔がよく見えない。
「迎えに来た!」
多分そうだったのだろう。そう思って伸行は言った。笑って、手を差し出した。紫蘭は歩み寄り、伸行の手を取った。紫蘭も笑っていた。
奇妙なほどの高揚感があり、充足感があり、幸福になって、伸行は笑った。18歳だった。大学には行かずに、大阪に出て芸能人の育成学校に通う計画を立てていて、朝早くに仲間と集まって発声練習をしていた。別の家に住むようになった紫蘭が、その頃どうしていたのか、伸行は知らない――はず――なのに。
なのに18歳の伸行は、通った工業高校の教室で、紫蘭の手を取り、笑っている。
紫蘭は笑い、言った。
「大学には行かないの」
「行かないよ! 芸人になるんだ」
「工場はいらないの?」
「いらないも何も、陸空が継ぐだろ」
「あげるって」
紫蘭はただ笑っている。静かに、鬱蒼とした森のように静かに。
「のんにあげるって、約束したのにな」
太陽が落ちる。落ちていく。落下する感覚が始まる。太陽と一緒に落ちていくのだ。伸行は、自分が雨の粒になり、天から落ちているところだと急に感じ取る。雨粒は学校の手すりに、伸行たち一族の工場の壁に、そして伸行の古い家に降り注いでいる。太陽が細切れになって降り注いでいる。それが伸行だった。
「ずっと一緒にいるって、約束したじゃない」
雨粒を指先で掬い上げた紫蘭が、伸行に向かって言う。雨粒の伸行に向かって言う。
指先を舐め取った紫蘭が、ごくん、と、伸行を飲み込む。
――はっと我に返る。夕暮れの学校にいる。
手を取り合って、歩いている。
伸行は話している。近頃あったこと。友達と話したこと。これからのこと。大阪のこと。伸行は話して、話して、話していて、紫蘭は黙っている。こんなことが実際、あったような気がする、と伸行は思う。
こんなことが実際あって、伸行が喋って、紫蘭は黙っていた。
「友達って」
だから紫蘭がそのとき実際そう言ったのかどうかはわからない。
「パーソナルスペース近いだけの他人なんだから」
「変な言い方」
「『俺』と『他人』は、違うでしょ」
伸行は目をしばたたかせて紫蘭を見た。単純に、何の話だかわからなかった。そのとき伸行にとって紫蘭とは、森園紫蘭とは、何者だったのだろう。誰だったのだろう。紫蘭が手を伸ばし、伸行の顔を掴む。口の中に指を入れられて、喉奥まで触られる。これは本当にあったことだろうか?
本当にあったことではないのなら、伸行の願望か?
「都合の悪い答えを持っているなら、それは要らない」

いつ間違えた?

黙り込んだままの姉がパイプ椅子の上で脚を組んでいる。
彼女に会えるようになった頃には、伸行は大分回復していた。祖母の死、通夜、強姦、紫蘭と一家の失踪、葬式、紫蘭からの電話、警察、捕まったあとの記憶がうまく思い出せないのでスキップして、いま、病院にいる。話せる範囲のことをひととおり伸行は喋り、姉、志乃生(しのぶ)は黙って聞いていた。姉に向かって長い言葉を使うのは久しぶりだった。伸行と志乃生は、折り合いの良い姉弟ではなかった。
だから全部を喋ったわけではない。
姉ちゃん俺さ、紫蘭になんか、変なことされたんだよね。
なんなのかわかんないんだ。
なんだと思う?
聞けたら答えがあったのだろうか。伸行にはわからず、志乃生には分かることが、あるいは?
「ねえ、煙草が吸いたい。帰ろう」
「帰れるの、俺」
「いいよ。帰ろう」
適当に言っているだけなのか、伸行にはわからなかったが、医者には特に止められなかった。伸行は荷物をまとめて、病院を出た。夢を見ていた――見ていたと思う。夕暮れの高校の教室で、紫蘭と話す夢を見ていた。志乃生は川沿いを歩き、煙草をふかした。伸行はうつむいてその背中について歩いた。
「もう喋らないの」
「え?」
「あんた、いつも全部なにもかも滅茶苦茶喋るから、嫌いだったんだけど。隠してることがあるのは、いいの」
……わからない」
病院にいる間の記憶はほとんどないが、高熱が出て魘されていたことは覚えていた。紫蘭が伸行にした「暴力」は、病院ではつまびらかにされたのだろうか。なにもわからなかったし聞きたくもなかった。自分が本当に陸空を殺したのかも、紫蘭がどこにいるのかも、わからなかったし知りたくもなかった。
「どうでもよくなった」
「そう」
志乃生が嫌いだったという、うるさくて、いつも跳ね回っていて、元気なだけがとりえの伸行は、多分紫蘭が壊してしまったのだと、志乃生に言って何になるだろう。
川沿いの道を2人は歩いた。志乃生が吸っている煙草のにおいと、草を踏む感覚が、かろうじて現実だった。志乃生は途中でコンビニエンスストアに寄り、伸行を振り返って「晩飯買うよ」と言った。
「食いたいものない」
そう言うと志乃生はうどんをふたつ買って、ひとつを伸行に持たせた。
「そういえばさあ」
志乃生がそう言ったのは、自宅について、うどんを食べ終わり、伸行がゴミをまとめているときだった。
「今でも絆創膏使ってるの?」
「え?」
「乳首」
「うん」
「あたし昔から、あんたたちが気持ち悪くて、嫌いだった」
――カチ、カチ、カチン。
伸行は返事をしなかった。立ち上がって、走り出した。家の中を駆け回って、部屋に来た。紫蘭の部屋。紫蘭が使っていた部屋。
ノートがどこに押し込まれているか、知っている。子供の字にしては端正な文字。子供の頃の紫蘭の字だ。
子供の頃から乳首が腫れやすくて痛くて、絆創膏を貼るようになった。触られると変な感覚になって嫌だったので、夏でも重ね着をした。小学生の頃が一番ひどくて、中学に上がった頃には多少マシになった。――中学校に上がるまで、伸行は毎晩、紫蘭と一緒に寝ていた。決まって、紫蘭の方が遅く寝て、紫蘭の方が早く起きた。
べったりの関係のふたりを、志乃生が、気持ち悪いと言うのも、無理はなかったのかもしれない。
ばくばくと心臓が鳴る。自分は、伸行は、もうずっとまえから、わかっていた、そのことを、急に、理解する。
20歳の夏に、紫蘭の部屋を整理していて、このノートを見つけた。
そこには整然とした文章で、「乳首の感度開発について」書かれていた。
メンソール入りのリップクリームを塗りつけて、ゆっくりと触る手順について、丁寧に書かれていた。
メンソール入りのリップクリームは、紫蘭がいつも使っていたものだった。
自分の胸に触れる。書かれているとおりにゆるく触る。しびれるような感覚がある。昔から嫌だった。わかりたくなかった。わからないふりをしていた。紫蘭と眠って朝起きると、乳首がぴりぴりして、気持ちよくなる、気持ちよくなってる理由が分からない、わからないけど紫蘭と一緒にいると、それが起こるので、紫蘭と一緒にいるのは、良い気持ちで、だから嫌だった、気づくのが――どうして? わからない。
わかりたくなかったのは、紫蘭が、「悪い」という事実だった。
多分。
だからそれに、蓋をした。
20歳の夏から、この方法でオナニーをしている。ノートに書かれた手順を守って、自分でやっている。胸はぷっくりと腫れて、大きな絆創膏で隠している。紫蘭は悪くない。紫蘭が悪いのではない。そう思いたくて、自分でやっている。チンコを触らなくても上手にいけるようになった。同時に、そうだ、わかった、知っていた、ずっと前から、わかっていた、自分は紫蘭に――
「してほしかった」。
ずっと前からわかっていたのに間違えた。
間違えたから自分は、紫蘭を、失ったのだ。
友達の話をしている。他人の話だねと紫蘭が言う。俺は他人じゃないよねと紫蘭が言う。伸行は笑って、答えに窮する。近くにいたらよかったか。メンソール入りのリップクリームについて知っていると、伝えたら良かったか。目覚めているときにも触って欲しいと、強請ったらよかったか。愚かでなければよかったか。
自身の愚かさに甘えて目を逸らしたから、罰を受けたのか。
森園伸行は紫蘭の部屋にいる。森園志乃生はキッチンで煙草を吸っている。森園陸空は死んでいる。森園紫蘭がどこにいるのか、伸行は、知らない。

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