目の前にある花

『アンダーカレント』本編のネタバレがややあります


 車を一台持っている。どこに行くにも便利だ。地方都市では自由の象徴である、車を持つのは。
 本当は二台を持った方がいいと思うし、駐車場も十分な広さなのだが、茉優さんは、一台でいいという。どうせどこにだって一緒に行くでしょう、と茉優さんは言ってのけ、そうかなあとウイは思うのだが、茉優さんがそうだと言うのなら、それでいいのだろう。その全幅の信頼を、寄せていいような人間では、ないと思いますけどね、あなたの妻は。
 妻、と紹介されるのがウイは好きだ。だから法的に認められるべきだと思っているし、車をひとりで使って出かけて行って、裁判の傍聴を聞いたりもする。同性間で恋愛をして結婚をするのがそう特別なこととは思われないが、そう思っている人は相当に多いらしい。
 ウイが車を使って出かけるよと言うと、茉優さんはあまり興味がなさそうに、そう、と相槌を打つ。ウイがどこに行くのかには全く興味がないらしい。どこまで行くのか確認して、途中で下ろして欲しいと頼むことはある。茉優さんはこの地方都市の、たとえば花畑、に行きたがる。花畑?
「だって地方都市に住んでいるんだから、地方都市をたのしむのがいいでしょう」と茉優さんは、当然のことのように語る。変わった人だ、と茉優は思う。弁当と水筒を持ってひとりで、人工的に植えられた一面のポピーを眺めて休日を過ごし、ウイが迎えに来るまで待っている、この女性のことを、自分の妻のことを、ウイは、少女のように清らかだと感じることがままある。
 その子供じみた感覚を含めて、ウイは茉優さんを愛している。けっこう、ちゃんと、深めに。
 それって普通のことだと思うんだけどな。
 そんなに激しい愛ではないこと、熱愛を交わしているわけではないこと、どちらかというと情と呼ぶに適した程度の、適温の関係性であること、それは普通のことだと思うんだけどな。一緒に暮らすようになって何年も経ち、茉優さんが、どう考えても柔らかい信頼としか呼べないものを寄せてくる度、不思議だなとウイは思う。
 普通ではないことだと思っている人がいるなんて不思議だ。頭の中に指を突っ込んで、かき混ぜてやりたい。

「花畑で何をしているの?」
「ブログを書いてる」
 関係を持ってもう何年だろう、はじめて問いかけたその質問に、返ってきた言葉は予想外だった。茉優さんにはお気に入りの花畑がいくつかあって、晴れの日は花畑で、雨の日は無人のレストハウスや四阿で、茉優さんは手帳を広げて、「帰ったらブログ記事にしようと思って、色々と、文章を書いている」のだそうだ。
「小説家の先生の影響?」
 ウイは、茉優さんの友人の話を持ち出した、茉優さんは少し考えて、「まあ、そうかもしれない」と、まったくの生真面目さで回答した。ウイは普通に嫉妬した。人生に干渉できて狡いと思った。そして私はその「嫉妬していてウケますな」という、恋愛っぽさを第三者的に消費している自分にも気づいて、少し、笑った。
「ブログ見せてよ」
「いいですよ」
「どんなことを書いているの?」
 茉優さんは、ウイたちが住んでいる地方都市の名前を挙げて、「に、咲いている、花について、ひとまずは記録してる、そういえば目の前を過ぎていくばかりにしていたから。私が記録しなくても、誰もが知っていることばかりだけど。スケッチを描いたりしてる、目の前にあるから」と、答えた。
「私のことは?」
「なに?」
「私も、目の前にありますが……」
「そうだね」茉優さんは、意味を理解した、というように、唇に弧を描かせた。「絵、全然うまくないよ」
「そんなのは関係ない。それって愛でしょ」
「目の前にあるだけでしょう」
「選んで目の前に、いるのですが」
 やれやれ、茉優さんは聡明だがちょっとばかだ。ウイは花と違って、望んでここに帰ってくるというのに、目の前にいるだけ、とは。
 あなたといる事実について世界の人類の頭をかき混ぜて改変してやりたいと思っているのに、それだけ、とは。

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