11.街じまい

千草さんはかすかにパンのかおりがする朝、無数のちょうちんの前で難しい本を読んでいた話をしてください。

さみしいなにかをかくための題より

 桜の開花に少し遅れて、桜並木と山沿いの公園に、赤い提灯がぶら下げられた。夜のはじめにはその下で酒宴が行われ、いくらかは屋台も出ていた。
 満月の夜は過ぎた。千草は夜、提灯が灯った公園のひとつにでかけていき、酒宴の声を聞きながら、缶チューハイを片手に本を読んでいた。ひどくややこしい内容で、こういう本を読んでおけと指示される度、大学も出させてもらえなかったのに、と千草は不平を言う。
 提灯は自動制御されているらしく、夜明けとほとんど同時に消灯した。それを区切りに、立ち上がって、山を下る。
 駅の近く、古民家を改造した風のパン屋が開店準備をしている。夜が追い払われたあとの風景のなかで、パンの香りはすがすがしく甘い。
 海辺の街に住んでいる。美しい街だ。もうじきなくなってしまうとは、到底思えないほどに。

 空元千草の人生は、いつのころからか入り組んでしまっている。
 十代になる前から、学校はあまり好きではなかった。インターネットに入り浸っているうちに、アルバイトをしないかと持ちかけられた。弟がもう生まれていて、千草から親の関心が逸れていた時期で、好都合だった。学校に行かない以外は手の掛からない子供だったので、疑われもしなかった。
 十歳の子供にアルバイトをさせるのは、そもそもが、ろくな組織ではない。別に、千草が十歳の子供だったから声が掛かったわけではないらしいが。親が気の毒だ、と思う。千草もいい歳になったので、しみじみとそう思う。かといって、今更全てやめて帰るかと言われたら、どこに? とも思うのだが。
 千草は十歳の時、「街を消す」アルバイトを始めた。夜彦とパートナーを組んで。
 十歳から十八歳までの時間を使って、千草は、自分の住んでいる街を終わらせ、消滅させた。街を終わらせることを千草たちは「街じまい」と呼んでいる。最初のそれに千草はずいぶん手こずって、結局、本当に街が消えるまでは更に十年かかった。
 今は慣れたものだ。一年もかからない。
 「街じまい」は千草にとって純粋な労働で、別に快楽とかよろこびとかは伴わない。むしろ軽い胸の痛みを抱いたりする。街を知るために滞在する長くはない期間、その街がひとりの人間であるかのように、情を感じることも少なくない。でも仕方ない、と千草は言い訳のように、提灯や桜、パン屋や古い駅舎に向かって言う。こっちも、仕事なので。
 千草がこの町に住んでいる間、街は少しずつ蝕まれ、崩壊し、おわりに向かっていくはずだ。それが千草の仕事だから。千草がかつて住んでいた街も、八年かけて崩壊に向かった。
 可哀想だったのは、と、難解な本の背表紙を撫でながら、千草は思う。
 生まれてからずっと千草のそばで育った弟が、零が、街の象徴のように、ずっと具合が悪そうにしていたことだった。街がきちんと終われば悪影響も受けなくなるとは思ったが、子供時代をずっと不調で育つのは、精神衛生の面でよくはなかっただろうと、千草にはそれが少しだけ気がかりだった。だからといって、街を出るように働きかけるでもなく、ただ、ああ、零って可哀想だな、と思っていただけだったのだが。
 あの頃、もっとはやく、街を終わらせることができていれば、零の十代はもっといいものになっていたのにな、と、千草は今でも、たまに考える。最初の「街じまい」だったから、手こずって、悪かったな。
 注射だって手間取ると辛い。一瞬なら、辛くないことも、あるはずだろう。
 この仕事をはじめて二十年になる。空元千草の人生は随分前から入り組んでしまった。いくつもの街を見たが、いずれの街も千草の社会ではない。千草には社会がない。愛着もない。
 多分、安らいだこともない。

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