12.内臓に似ているアーケードのライスプディング

 おれの名前は向田忠夫といい、このタダダと連なる音がこどもじみた機関銃掃射を想起させるので気に入っているのだけれど、その点を褒められたことはまだない。あるいは一生ないのかもしれないけれどその点においておれはまだ希望を捨てていない。どうせ希望を抱くようなことはさほどありはしないのだから希望を持てることではせいぜい持っておくべきではないか。

 この一連の文章がコメディ・ドラマだということをおれは知らずにこれを書いているし、だからおれはしごく真面目にこの文章を書いている。しかしどうせおれの人生は終始一貫してコメディ・ドラマだ。そうだということにさせてくれ。

 アーケード商店街というものはおおよそ内臓に似ている。

 いつだかえみちゃんが言っていたと思うが、迷路というものは内臓を模したものだそうだ。かつておれたちがデートの原始形態のようなことをやっていた頃、えみちゃんの手作りのその精密画によく似た迷路を端から蛍光ペンで塗りつぶしながら(蛍光ペンというものはおおよそおれに似ているし、おれたちにとって迷路というのは塗りつぶして遊ぶものだった)、たしかあのときえみちゃんが言った。おれは大抵のことを忘れてしまうのだけれど、いくつか忘れることのできないことがあって、そのひとつに数えられている。

 アーケード商店街は、しかし日本のどこへ行ってもこうこうとあかるいドラッグストアに押しのけられている。おれは精神がガキなので薬が嫌いで、ドラッグストアはその親玉だと思っている。敵は病院じゃない。病院はできるかぎり薬を飲まずにどうにかする方法を考えてくれる場所だ。ドラッグストアは必要もない薬を買わせる場所だ。おれはドラッグストアが嫌いだがアーケード商店街はドラッグストアにまみれているか、ドラッグストアにまみれていないアーケード商店街は死につつある。

 どちらにしろ内臓に似た話だ。不健康な人間の。

 そうしておれは不健康な人間の内臓から逃げ出し、健康な内臓によく似たアーケードで、アロスコンレチェ(だとメニューには書いてあるもの)を食べている。そうだと言われればそうのような気もするし、そうではないのではないかという気もする。日本に帰ってきてから食べる外国の料理はどれも、そうだと言われればそうのような気がするし、そうではないと言われればそうではないような気がする。いずれにせよおれはこの店のアロスコンレチェが好きだしもう何年もこの店ではこれしか食べていない。おれは多分そもそも肉があまり好きではない。

 おれは頬杖をついて、えみちゃんは元気かなあ、と思う。帰ってきて、実家に寄って、それから戻ってきた駅前で麩饅頭を買った。えみちゃん麩饅頭あるよと言ったら、えみちゃんは返事をしなかった。おれは119を押した。そうして倒れているえみちゃんの家の前で麩饅頭を食べていた。えみちゃんは、賞味期限が切れる前に、麩饅頭を食べることはないだろうから。

 ねええみちゃん、と、おれは、あのとき言おうと思っていたことを思い出す。ねええみちゃん、うちのおやじ子供が欲しいらしいんですよ、どうよ息子が三十になってからおもむろにそういう、しかも、孫はいつだとかいうんじゃないんだぜ、マッチ棒で家建ててる、おまえの子供が住む部屋があるから、とか言って、洋治さあ、イマジナリ孫だよ、さてえみちゃん今の話の趣旨はなんだと思う?

 女の子が生まれたら、名前は麩饅頭がいいな。

 すべすべしててもふかふかしてても、どれも絶対に可愛いからね。

 えみちゃんは入院して、おれは手続きをしてから病室も見ないでここに来て、おれは、たぶん、ぶっ倒れたえみちゃんの隣で麩饅頭を食べたことを、これから一生忘れないと思う。メキシコ人は米を牛乳で甘く煮てシナモンをかけて食べる。おれはあらゆる外国であらゆる甘く煮た米を食べるたびに、自分の人生に復讐をしている気分になる。それがおれの目の前に置かれていて、おれはそれを食べずにずっと見つめている。ここは人間の胎内のようなアーケード街で、健康だし、生きているし、おれはここにいるあいだだけは一ミリたりとも笑わないと決めている。左耳におもちゃのイヤリングをぶらさげていて、たぶんこれをおれはもうじき失くすのだろう。

 おれの名前は向田忠夫で、しかしおれをその名前で呼ぶ人間は両親とあと数えるほどしかいない。

 えみちゃんは近頃おれを、ポアロ、と、呼ぶ。

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