終.感情の話

11 胡蝶さんはうす曇りの5月のある日、アンティークのパイプを扱う店で微かな頭痛がぬぐえない話をしてください。

さみしいなにかをかくための題」より

「人とだって話せるようになったじゃないか。知らない人と買い付けにだって行けた。簡単だろう?」
 薄曇りの五月のような中途半端な明るさで、父は胡蝶に言った。働くのなんて簡単だと、もっと言えば、人の上に立って指図をするのなんて簡単だと、そう言いたいらしかった。
 何をやっているのかすら定かではないほどに拡大した父の事業を引き継ぐ気はなかった。それはあまりにも父の夢、ただただ少年の日に夢見ただけの雲のように、現実感がない、と、胡蝶は思った。父の趣味はアンティークパイプの蒐集である。美しいものが人生を豊かにするという、夢を見ているのだ。
 祖母は、夢子は――違ったと思う。
 事業を継ぐ気はないが、しかし、何もせずにここからたとえば三十年、食い潰すだけで生きていくのも気が引けた。金持ちのお嬢さんだからそうは言われないというだけで、世の中にはこの状況の人間を指す悪い言葉はいくらでもある。胡蝶は金持ちのお嬢さんだし、足が悪いので仕事をしたくないと言えばそれで通り、薄幸の美人の顔をしたければできて、ずけずけ口を利くような間柄の友達もいないので、胡蝶の悪口を言う人はいない。
「わたしの悪口を言ってもいいです」
「はあ」
 ひよりは間の抜けた声を出した。ブラックコーヒーが手つかずのまま、ひよりの細い指の前で、湯気をうしなっていく。
「言いたければね。長い付き合いになるかもしれないから、今後は、我慢せずに言いたいことを言っていいですよ」
「それは、……私によるね。いや、君にもよるか……」
「あなたは累夢子が好きなので、幸せに過ごせます」
 胡蝶は断定的に言い、返答を聞かずにそのまま続けた。
「祖母が遺した家があって、誰かが管理をしなくてはならないんです。博物館のこともそうですが。博物館の館長はわたしということになっていますが名ばかりで、というか、この半年で専門の方に引き継ぎました。あとは、住むだけです」
「住むだけね」
 胡蝶は切り札を出した。「わたしを、海辺の、山奥の、古い日本家屋に、ひとりで住まわせておくのは、不安でしょう」
 不安かどうかは感情の問題なので事実無根ではないが、胡蝶は四年間、一人暮らしをしてきたのだから別になんということもなかった。実際は。
 しかしひよりは実際に不安そうな顔をして、息をつき、冷めたコーヒーを飲み干して、言った。
「夢子さんの話はもうしないで」
「しないわけにはいかないと思いますが」
「私と、夢子さんの話を、もうしないなら、いいでしょう」
 ひよりは立ち上がった。見おろされるのは珍しい。ひよりに、というより、誰からも。何故かわずかに頭痛がして、それは悪い予感に似ていた。
「行こう」
 ひよりが手を差し出す。エスコートされるように手に体重をかけて、胡蝶は小さく、息をついた。

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