書き出し考

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はじめに

こちらの記事に、書き出せない人、書き出せる人、よかったら教えてください、との記載があったこともあり、今日は書き出し関係の話をしたい。ちなみに上記のブログを書いてらっしゃるtobusukaさんはものすごくおもしろいエッセイを書かれる方で、ブローガストを通じて知った。ものすごくおもしろい裏にこんな苦労が……と思った。

書き出せる側

わたしは「書き出せる側」である。内容の出来や精度とは関わらず、とにかく「書き出せる」。ネタ出しや構成に苦しむことはあっても、書き始められないと思ったことはもう30年以上ないはずだ。

「書き出せる」ということは書く手をかなり早くする。「書き出し」によって収入を得ていると言っても過言ではない状況にある。

どちらかというと、書き出しを掴んだ瞬間書き始めないこと、の方に苦労している。頭の中に「書き出し」がチラチラしているのに釣られて書き始めると、こういった長くて5000字程度のブログはともかく、長い作品で書き出し自体が間違っていてあとから盛大に直す、ということがけっこうある。

目先の気持ちよさに飛びついている、ともいえる。

思い出話

小説を書き始めたのが10歳の時だ。歳の離れた姉が小説を書いていて、当時けっこうシスコンだったので姉に憧れて書き始めた。書き始めたはいいのだが、プロットもなにもなく、ぼんやりとした構想と、ワンシーンのイメージだけを手掛かりに書こうとするものだから続かない。

結局、ひとつの書き出しを、長いときには3年くらい書き続けていた。

夜になってひとりの時間ができたら机に向かって、昨日書いたのを読み返し、書き出しから改めて書き直すのである。10歳から14歳くらいまで、このスタイルで小説の書き出しだけ書いていた。書き出しだけだから人に見せることもできないのによく続いたものだと思う。楽しかったのだろう。

この思い出話には2つの要素がある。

  1. 思い返すに、書き始めの1文に苦労したことは、最初からなかったのではないかと思う。
  2. 書き始めの1文が手に入ったところで、書き上がるわけではないのである。

とにかく書き出す

書き出しの1文に苦労しないのは、練りに練った書き出しを使っているわけではないからだ。よい書き出しであるかどうかより、文章世界の内側に入れるかどうかで書き出しを決めている。

わたしは別に名文家とかではない。というか、文章でお金をもらっているものの、文章の良さでもらっているのかは不明である。なので1文をもっと丁寧に書く人のほうが正解なのかもしれず、これが正解という話ではもちろんない。が、書き出せなくて悩んでいる方は「でも書き出しなんて書き上がってから何度直してもいいし直すのはそんなに(真ん中へんや終わり方を直すより)大変ではない」ということをいったんお伝えしたい。

書き出しが掴めることと書き上げられることは関係ない

まあこれも人によるのかもしれないが。

書き始めることはできても全体の構成が見えていないとどうせどこかで詰まる。最後まで書き上げられなかった12歳前後のわたしが、4年間かけてしっかり確認した事実だ。

今のわたしは「書き出してはいけない」ということになっている。構成が分かってプロットがある程度仕上がり、こういう記事でも最低限見出しをざっくり設定し終えるまで、書き始めてはいけない。書き出しが思いついたらどこかにメモっておいて、書き始めない。

書き出しとわたしの現在

10歳以降、色々な七転八倒を繰り返したのだが、全て書いていたら大変な分量になってしまう。現在の方法をサラッと書いておく。

構成を考えてから書き始める

文章の全体像を、ざっくりでいいので考えておく。小説ならそれなりの量のプロットを書くし、こういう記事だったら大見出しだけでもいい。頭の中で全体をぼんやり掴んでおくだけでもいいと思う。

全体の構成と、書く内容を極力整理してから書き始めないと、始まっても終わり方が分からないということになる。

良い書き出しにこだわらない

読むための書き出し(完成品の書き出し)と、書き始めるための一歩である書き出しは違うという認識をしている。書き始めるための書き出しは完成品とは全然違っていいので、あとから直す想定で「今日は○○について書く」みたいな、極めて普通の書き出しで別に問題ない。

わたしは、「書き出しを読んだだけで全体像がぼんやりとでもわかる」のが良い書き出しだと認識している。そんなものが書き始める前に分かるわけがないので、書き終わってから「全体像を象徴するような書き出しをつける」でいいと思っている。

迷ったら事実関係を書く

この文章の書き出しは「ブログを読んでブログを書くことにした」という旨が書かれている。今日書くことの事実関係であり、まあ、全体像を示しているともいえる。

「この記事は8/13の日記である。今日は苦労したことがいくつかあった」でも、「疲れすぎていて背中が痛い。改善方法を考えている」でもいい。書き出しに、文章全体の趣旨を書く。進み方を迷ったら書き出しを読み返せばいい。

文章を、まっすぐどこかへ向かって進んで行く一本の線だと思うと、往々にして迷子になる。それで名文が書ける人ももちろんいるが。

わたしは文章を、まあ基本的にはという前提はあるが、書き出しからぶら下がっている沢山の短い線だと思って書いている。それが「全体像を象徴する(書き手用の)書き出し」ということだと思う。

前述したが読み手用のカッコいい書き出しは書き終わってから調整する。必要なら。

おわり

まあでももちろん、書き始められないんだよね、という人がこの方法で解決するとは思っていない。書き出しはもっと個人的で感覚的なものだと思うので。

文章世界の内側に入るための扉をあけるようなものだ。すぐ扉を見つけられる人もいるし、扉かどうかは気にせず適当に穴を開けて入る人もいる。今日適切だと思われる扉を都度丁寧に彫って作るような人もいる。

わたしのやり方は正直、「適当な穴」である。まあ適当な穴でもいいんですよ。書き上がればいいの。

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