わたしの愛玩動物

朝時間があったので、散歩に行こうと思って出かけた。散歩先の公園で編みものをするのにハマっているのである。あたたかく、なごやかで、よい。

公園に行ったら……なんと……ボウリングをやっていた。多分、近所の住人が。実際はボウリングじゃないのだが一応㊙情報として仮にボウリングとしておく。

人がボウリングをやっているのっておもしろすぎる。が、ガン見するのもどうだろうと思い、スマホを見ているていでチラチラ眺めていた。編みものどころではなかった。

日曜日の公園ってわくわくだな。公園側も今日が本番だぜと思っていることだろう。しかし一人でぼんやりするような空間ではないのも、また、たしかである。編みものは平日にやりましょう。


ふだん、「生き物」と一切触れあわずに生活している。中に魂が入っていて、動いていて(自発的に動きたいという思いがあって)、温度のあるもののことをいったんここでは「生き物」と呼ばせてほしい、便宜上。定義から漏れるものもだいぶあるとは思うが、いったんね。

自分が生き物なしで生きられることに、大分誇りを持っているふしがある。人と抱き合って生きる必要は別にない。猫も飼わなくていい。大丈夫。大丈夫側として生きていることを、割と誇っている。そうじゃないひとがダメとかじゃなくて、そうじゃなくても別に大丈夫だから! ということを。

が、しかし、最近、ティーコジー(ティーポットに着せるカバー)を編んで、これが……内側から放熱していて……いい感じなのである。ウールで、100%獣毛だし。

内側から放熱している獣毛が傍らにいると捗る人生なんて! と思いながら、ペットボトルカバーを編んだ。

しかも犬の柄で編んだ。(柄は『イメージから選べる編み込み図案&配色パターンブック』より)

お湯をいれ、触ったり撫でたりしていると多幸感がある。あるが釈然としない。なんなら悔しい。が、放熱する獣毛に触ると快楽を感じるというのは、まあ、本能だろう。

『猫の神話』を読んでいると、猫はねずみ取りの才を買われ役に立つ家畜として人間の人生に導入されたがすぐにそんなことどうでもよくなり愛玩動物になったようだという歴史が幾度となく書かれていて、まあ、あたたかくて、やわらかく、(向こうの機嫌があえば)腕におさまる、獣毛だからな……と思う。本能だよ。顔だってかわいいしな。


色々思うところがあって、3月は、「家にあるもので豊かに、機嫌良く暮らす」をしっかりやりたいと思った。きちんと実行すべく、様々な角度から整頓している。

Uber EATSをやめよう。少なくとも3月のあいだは。食べたいからというよりおもしろいから頼んでいる。おもしろくなって買いすぎ、買いすぎると食べすぎる。もっとお金を使わず、もっと食べすぎない、身の丈にあった食べ方があるはずだ。

というか、ときには「さびしいから頼んでいる」まである気がする。なぜさびしいのかというと、仕事の進捗がない(気がする)からである。仕事の進捗がないと、「見捨てられるよ~」と思い、さびしくなるのだ。しかし都度都度進捗がないよ~と人に泣きつくのもな……と思って、心の支えがほしくなり、結果Uber EATSを頼んでいる、という日が月に1回くらいある。

細かく進捗が出ることと仕事を抱き合わせるといいでしょうね。さびしくなったらペットボトルカバーを編む(3時間で編める)とか……。わたしの愛玩動物だから。ホット用のペットボトルが。


朝しっかり働けるように夜はちゃんと寝る。スマホに依存しない。本を読む。散歩、ジム、図書館、のいずれかに行く。しっかり入浴する。働きすぎない。さびしくなったら、さくっと進捗が出るようなちょっとしたこと(掃除とか、手芸とか)をやる。

という感じで過ごしたい。1月2月、ちょっと、働きすぎた、気がする。

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