外マドレーヌ─哉村哉子いろいろ置き場

おやすみ

わたしには好きな人がいたはずだ、ということを、突然彼女は思い出す。彼女は自宅にいて、仕事を終えて、彼女の生活において最低限のラインの酒を飲んでいる。世間には朝が来ていて、彼女にとってはそれは夜だ。その逆転した生活を、彼女はたのしんでいる。彼女は身元のわからない外国人であっても深く忖度されない仕事をみつけて、小さな発泡酒の缶をあけるためのねどこも手にしている。生活は楽ではないが、そもそも、楽だったことなど、なかった。生まれた時から一度も、そんなことはなかった。

ルームシェアをしている相手が、帰ってきたら、昔話をすることもできるのに、と、彼女は思う。でも、ルームシェアの相手は彼女とは全く違う勤務形態で働いていて、もうずいぶん長い間彼女に会っていない、簡単なメモのやりとりと、金のやりとり。それだけだ。

だからもしかしたら、彼女は架空の存在なのかもしれない。そんなものはこの世には存在しないのかもしれない。でもつごうよく半分出されている金は確かに存在している。

魔法のようだ、と、思った。

誰が信じるだろう。彼女がかつて魔法を使っていたこと、彼女がかつて女王だったこと、彼女がかつて人民を統べていたこと、そうして彼女がかつて、恋をしていたこと。なにもかも、まぼろしのようだ、と、思った。なにもかもまぼろしのようで、全部泡みたいに消えてしまった。違う。彼女が選んで、それをしたのだった。

彼女は満ち足りた生活を送っていて、自分がかつて恋に身を焦がしたことすらうまく思い出せない。それより金色の髪が荒れているからトリートメントをしたいと思う。誰に見せるわけでもなくてキャップの中にしまわれているだけの髪なのだけれど、そうしたい、と思う。

この国には奇妙な風習があり、実を言うと、彼女がこの国を選んだのはそれが理由だった。この国では歌を歌うことは禁忌である。そうしてこの国のでは歌を歌うことで厳しい処罰をうける。歌声はまったくもってこの国から遮断されており、なにもきこえない。ここはとても静かな国だ。彼女はこの国での生活をそれはそれは気に入っている、ここがとても、静かだからだ。

もう忘れてしまった。恋をしたこと。国を憎んだこと。美しい歌声のこと。ぜんぶここには用意されていないから、なにもないから、彼女はそれを忘れてしまった。そうして、いま彼女は、ぬるくなってしまった酒を指先で冷やしながら、かつて好きだった人の名前を、たわむれに、思い出そうとしているのだけれど、これが、これっぽっちも思い出せないのだった。

彼女はその夜考えたことを短い文章にしてメモを残した。同居人が帰ってきたら読むだろう。読んだからなんだといういうことでもないのだけれど。彼女はこれから六時間眠って労働に戻る。彼女はとてもとても幸福である。

「死んでしまったのはわらわかしら」

古い一人称を持ち出している唇に残る違和感を拭ってゆく、かるいかるい、泡。

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