外マドレーヌ─哉村哉子いろいろ置き場

コードゴースト② 土の味

「陸空(りく)を殺した」
電話の向こうで伸行がどうしていたか、覚えていない。それが最後のやりとりだったのだから、覚えているべきだった、と紫蘭(しらん)は思う。伸行がどう息を飲んだか、何を言おうとしていたか、それとも何も言えずにいたか、逐一全部覚えているべきだったのに実際は紫蘭は、まるで、覚えていない。焦っていたのだろう。十分に。兄が死んだときに感じるべき感情を、きちんと抱いていたのだ。
兄の陸空が死んだ。紫蘭が殺した。
「のん」
呼び慣れた通りの呼び方で伸行を呼んで、紫蘭は言葉を続けた。「俺は陸空を、――に埋めた。おまえはただ、警察にそれを伝えるだけでいいんだよ」
電話を切った。
それが最後。
残念な幕切れだなと紫蘭は思った。スマートフォンをコンクリートの壁に向かって放り投げると、それは思いのほか大きな音を立てて壁にぶつかり、転がった。もう使わないので要らない、と思い、思ったあとで、のろのろと歩み寄ってスマートフォンを拾った。画面が割れているだけで、中身は無事だった。消えていれば良いのに全部、という感想を抱いた。
公園の隅で蛇口を捻って、スマートフォンを殺した。多分泣いた方が良かったのだが、都合良く出る涙はなかった。自分が何を考えているのか、わからない、と思った。多分唐突に、三年後くらいに、急に分かると思う、あのとき、傷ついていたのか、怒っていたのか、悲しんでいたのか、苦しんでいたのか、それとも――
紫蘭が運転している車だった。
借金から逃げ出すなら、ばあちゃんが死んだ日に。それは陸空が言い出したことだったのだが、いつも通り、陸空がそう言い出すように仕向けたのは紫蘭だった。紫蘭はずっとそうやってきたし、陸空は察しが良かったので、全ては紫蘭の思い通りだった。紫蘭は陸空が好きだった、有能で、賢く、そして盲目で、全て紫蘭の思い通りだから、好きだった。陸空がなにを思ってそのように行動していたのか、興味がなかったので紫蘭は知らない。
わかっているのは、もう陸空はいないので、これから紫蘭は、全部自分でなんとかしなくてはならない、ということ、だった。
他人が嫌いで、家族のことは普通に好きで、なぜなら家族は紫蘭を守ってくれるし、紫蘭の都合に合わせて動いてくれるし、役に立つから普通に好きで、のんだけそうではない、「普通に好き」ではない、別のもの、全然別のもの、特別なもの、真夏の真昼の太陽のようにまぶしいものだったのは、なぜだったのだろう。
紫蘭は真夏の真昼の太陽を引きずり下ろして叩き壊して永遠に自分の持ち物にした。手に入れた。手に入った。手に入ったのであとはただ普通の人生が残っているのだと思っていた。
森園陸空と森園紫蘭と両親は、祖母が死んだ通夜の夜、荷物をまとめて車を出して借金から逃げた。そしてその道のさなかに、陸空が死んだので、計画は、歪んだ。
俺が殺した、紫蘭はもう一度、小さく呟いて、スマートフォンの殺戮現場を見ている。頬を拭うと土がついた。それを舐めるとざらついた感覚が舌に残ってその瞬間、土の味がしたから紫蘭は泣いた。

「俺が殺した――んだと思います」
「だってそうじゃないなら、埋まっている場所を知っているはずがないから」
「俺が殺して、陸空を埋めたんだけど」
「とちゅうで、間違ったことだと思いついて」
「だから警察に言った――んだと、思う」
「そうです」
「刑事さんの言うとおり」
――頭がぼんやりする。
伸行は、手を伸ばす。広げて、両手を見る。その手にシャベルを握ったと思っているのだれど、その記憶はおぼろげで、つかみどころがない。陸空を殺したいと思った。それははっきりと覚えている。
紫蘭が伸行に対して行った「暴力」の意味はわからなかった。ただ、どうも紫蘭は「一生逃げられない」ということに意味があると思ってそれをしたのだろうということだけがかろうじてわかり、「一生」という言葉は、伸行が「暴力」を上手にはぐらかしさえすれば、甘い響きを伴っているとも思えた。伸行は、それが「わからなかった」、けれど陸空が、「伸行は紫蘭を手にいられられない」と告げたことは全部を、暴力も、伸行のはぐらかしも、伸行がそれをまるごと「よかったこと」にしようとしている偽善も、全部、全部が、台無しになることだったから伸行は陸空を殺したかった――から。
だから殺した。
の。
だろうか?
ぼんやりと、ぼんやりと、思い返す。
紫蘭と陸空と彼ら一家が消えた、通夜の夜が明けて、祖母の葬式をどうにか慌ただしく終えたあと、電話を受けて、それから、伸行は警察に電話をして、それから、警察が来た。
今は、狭い部屋にいて、知らない男の人がいる。大きな声で同じ質問を何度もされて、疲れた。伸行がやったことだと言われたので、うなずいた。伸行にはよくわからないことだったので、じゃあ、この知らない人が言っていることのほうが正しいのだろうと思ったのでうなずいて、それから、――よくわからなくなった。
どうだっけ。
葬式のあと、電話を受けた――ような気がする。紫蘭からだった――ような気がする。警察に電話をしろと言われたから、そのとおりに、電話をした――んだったと思う。でも警察に電話をする前に、シャベルを手に持った。
確認したかったから。
確認をしたかった。
自分が陸空を殺したという、証拠を見つけたかった。
のかな?
眠くて疲れていて眠くて眠かった。掘り返したら陸空がいた。死んでいたのでああ俺は殺したんだなと思った。多分紫蘭も一緒に埋めてくれたと思う。紫蘭は良い奴だから。
いつも良い奴だったから。
今は冷たい床の上に倒れている。陸空を殺したから罰を受けるのだろうと思っている。爪の間に土が紛れている。陸空を殺した証拠だ。舐めると土の味がしてああこんな味だったかと思う。
旨い味がわからないのが罪ということかと思う。
陸空を許せませんでした。
俺の全部を紫蘭が持っていったのに、紫蘭の全部を陸空が持っていったら、俺の手元には、ひとつも残らない。

ハンドルを握っていたのは紫蘭だった。
何が起こったのか、陸空にはわからなかった。ただ、エアバッグの不備、という単純な事実についてだけ考えたのを覚えている。車の部品を作っていたのに車が理由で死ぬなんて呪われている、とも思った。急停車した車のせいでいっそう体が痛くて嫌だった。紫蘭と目が合った。紫蘭と目が合ったのは久しぶりだったので、陸空は、じゃあいいか、と思った。
陸空はずっと、自分がやっていることは、紫蘭を守ることだと思ってきた。紫蘭が伸行と「仲良く」過ごしていた幼少期、陸空は「我慢して」やったのだから、紫蘭と伸行の関係が行き過ぎたものだと自分に感じられるようになれば引き離すのが「あたりまえ」だった。全部「あたりまえ」だった。かわいい、きれいな、誰よりも特別な、陸空の弟。特別なのは当然で、陸空のたったひとりの弟が特別なのは当然で、だから、紫蘭のことをずっと守ってきた。
誰からも。
血液が流れているので意識が遠ざかる。うまく声が出せない。冷たくて重いものが上からかぶさって土だと気づいた。視界がぐらぐらと歪んで、紫蘭が別の生き物に見える。それには目と口がたくさんあって、あらゆる口は閉ざされ、あらゆる目は陸空を見ていない。あらゆる紫蘭が、陸空を見ていないから、陸空がここで土の味を食んでいると、まだ食んでいると、誰も気づかない。
怖いよ。

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