祥真はその日満ち足りて幸福だったはずだったのである。
彼はいま全裸で湯につかっていて、湯からは薔薇のにおいがした。小さなボトルのワインを、そうっと持ち上げた長い指を、ぼんやりと目で追っていた。ワインといったって三百円のコンビニのものだし、薔薇のにおいのお湯は保険のおばさんにもらったバスソルトだ。保険のおばさんはけっこう美人でセンスもいい。こんなものが世の中にあること自体祥真はよく知らなかった。工場勤めの前の職場ではこういう匂いもなくはなかったのだがそれを身に着ける側であったことはなかった。その前は――
思い出せないし、それより問題は、目の前にいるダークスーツの男が手にすると、ワインボトルがやけに高級そうに見えるということなのだった。
誰だ?
「人間に会うのは二百年ぶりだ!」
男はほがらかに言った。
「さてマスター、なにが望みだ? ふむ、目が暗いぞ、なるほど救いを求めている顔をしている。求めよ! されば与えられん! これはいったい誰の言葉だったかな。誰でもいいか、人間の言葉であることは違いがない。君は彼と友達かな?」
「いえその人はたぶん死んでると思います」
「さもありなん!」
「あの」
男は心から楽しそうに笑い、当然のように、ワインボトルを持ち上げて、煽った。
「それはおれの晩酌です」
「召喚用の葡萄酒の処遇はこちらに権限があったはずだと思うが、流儀が変わったのか?」
「召喚?」
「召喚だ。しただろう。していなかったら呼び鈴は鳴らない」
「呼び鈴?」
「召喚ボックスを知らないのか? 今どきの人間は教育がなっていないな。人間が召喚の儀をとりおこなうと、召喚ボックスがりんりんと鳴るんだ。たまたまわたしが通りかかったので、二百年ほどご無沙汰したことだしと思ってな、昼食前に腹ごなしをと」
「待ってください召喚?」
「したじゃないか」
「してない! ていうかあなた誰ですか」
「……なんと言うんだったかな」男はかたちのよい顎に指を乗せて思案顔をした。「エンジェル。フェアリー。違うな。適当な言葉があったはずだが。まあそのたぐいのものだ。見たらわかるだろう、このシチュエーションで現れることができるのは人間の上位存在だけだ」
「全く分かりません」
「人間は石器時代へ回帰しようとでもしているのか?」
「全く分かりませんし何なんだよ!」
「だーかーら」
男は小さな子供を見つめる目つき、諦めと呆れを含んだ慈愛と呼べるような表情を浮かべて、祥真を覗き込んだ。
「これは酒だ。そうだな?」
「あ、はい、コンビニで買って帰りました、今日、珍しく残業なかったんで」
「ここに、あるいはここに来る前、けだもののたぐいとの接触は?」
「鳥の糞頭にかけられたんで、慌てて帰って風呂入れて」
「風呂が赤い。塩の香りもするようだ」
「バスソルトもらったの思い出して、こんなゆっくり風呂入る時間もなかったし」
「酒を注いだ」
「注いでな……ああ、ちょっと浮かれてたんで、風呂で飲んじゃえと思って、ワインあけたひょうしにちょっとこぼした……」
「獣と塩と酒と湯。そして歌」
「酒飲むといつもおれ、えっと、きーせーきーを呼ぶのは心を繋いだ仲間さ……エロイムエッサイム、バランガバランガ僕らの」
悪魔くん。
パチン! と見事な音を立てて、男は指を鳴らした。
「悪魔くん! それだ! わたしは、悪魔だ!」
めまいがした。たぶんのぼせたのだと思う。
「だから嫁ではない」
祥真は讃井くんにそう言い渡した。できる限り厳格に聞こえるように言い渡した。讃井くんはいつも通りまじめ極まりない緊張した顔でそれを聞き(讃井くんとはもう数年の付き合いになるのに彼はいつまでたっても祥真に対して緊張を解かない)、いつも通り眉をひそめて、う、と、呻いた。
「で、でも」
「泣くな」
「う、うう……すいません、でも、あの、でも、ご家族が、っていう……のは……おんなじですよね……それすごく……う、う、う」
「ご家族ではないし、泣くな」
忌々しいのは、しかし讃井くんがいつも通り泣くことではなく、祥真は讃井くんに対して弟に対するような愛着すら感じていたのでそういうことではなくてむしろ讃井くんが泣くたびにどこか甘い感情すら抱くようになっていたのがここのところで、祥真にとって忌々しいのは顔を伏して泣く讃井くんを見つめる祥真にとっては数少ないリラクゼーションタイムに、ノイズとしての存在がぽっかり浮かんでいるということなのだった。文字通りだ。
男は空中に浮かんで足を組み、かすかな青い偏光のあるスーツに包まれた腕を持ち上げて顎を指先で支え、心から愉快そうにふたりを眺めていた。
糸崎祥真という名前で三十二年前に生まれたときからこういう人生を歩むことになるだろうとは思っていたが、こういう交友関係を持つつもりはなかった。十八歳で専門学校を卒業し、それから最初に勤めた修行先で精神をやられ、早々に辞めてから飲食店を転々とし、それでも店をやりたいという夢は潰えていなかったところを七年前の事故で完全に断たれた。右手で長時間しっかりものを持つということも、細かい作業をするということもできなくなったのは、けれど幸運なことだと思ったのだった。
この部屋にいるのはポンコツにポンコツを重ねた工場現場主任がひとり、
その手を潰したことをいまだに気に病んで行方をくらました被害者を探し当てたトラック運転手がひとり、
そうして悪魔が一匹(一匹でいいのか?)。
人生の転落は願ったり叶ったりともいえる。夢見ることもできなくなったことを祥真は幸福に思う。いまの生活は自分に向いていると思う。どうせちょっとした居酒屋をやるなんて夢、かなうはずもない夢だった。才能も根性もなかった。今の仕事のほうが向いている。皆気遣ってくれるし、部下にも慕われている。保険のおばちゃんは美人だしバスソルトをくれる。讃井くんを泣かせてばかりで申し訳ないと思うが讃井くんがこんなにも自分を大事にしてくれることも正直少し気分がいい。なにより、探し回って見つけ出してもらえるほどたいそうな人間扱いされたのは生まれてはじめてだ。聖域だ。にやにやしてんじゃねえ。
あの日悪魔は言った。
「この線は幸福と不幸を峻別するラインだ。そのラインを幸福の側に超えるまで、我々悪魔は人間のもとから離れることができない、うっかりもののマスターがやってしまった召喚術は、そういったものだ。軽い魔術だし大抵簡単に終わる。さあ、幸福になるがいい、我がしばしのマスター」
だがしかし悪魔は一か月経ったいまでも、部屋にとどまり続けている。
「にやにや笑うな」
こらえきれずに祥真は言った。
「おれの聖域に踏み込むな。願い事をなんでも叶えるんじゃなかったのか」
悪魔は肩をすくめた。
「君は石器時代に回帰したいのかね?」
馬鹿か、と言っているのだった。
幸福とはなんだ。
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今すぐこの男が消えてくれれば、という答えしか、思いつかなかった。